「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2001.03.31(Sat)
連中はそうじゃない。
きみは羊たちを守ることが自分の義務だと感じている。
連中はそうじゃない。
ハンニバル
■新聞『ASAHI WEEKLY』4/1.2001の映画より/翻訳 中俣真知子/朝日新聞社
正義とは何なのか、立場が代われば変わってしまうあやふやなものなのかと一瞬考え、自分のことを思い一寸笑った。
もう10年も前にアカデミー賞をとった「羊たちの沈黙」の続編として制作された話題の映画「ハンニバル」の脚本の中で、アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクター博士がFBI捜査官クラリスに発する言葉より。原作小説はトマス・ハリス。
秩序、誓い、義務について、クラリスとFBIの上司や同僚との違いを3度「They don't.」と否定する。やはりアメリカ映画なんだ、アメリカ人は正義が好きなんだ、そして、それがいつまでたっても現実に手にいれられないから、手を代え品を替え思い出させようとするんだと思った次第。しかし、時の権力者達に対して、常に反抗するヒーローやヒロインがいるアメリカは楽しい。「水戸黄門」で安心できる羊たちとはどこか違うような気がする。
おかしな天気の一日であった。晴れ、曇り、小雨、一部では雹も降ったと言っていた。テレビに写し出された東京、隅田川沿いの桜には、雪が舞っていた。気温がかなり下がっていたようだ。郊外まで足をのばす。車はいつもほど混んでいなかった。
2001.03.30(Fri)
私は思わず息を止めた。霧の中をゆっくりと走る馬の群れは、中世騎士団の幻想を見ている気がした。
伊集院静
■『「武豊」の瞬間』の解説より/島田明宏/集英社文庫
文庫本の解説には「幻の馬」の題名があった。解説とある以上、著者の島田明宏や騎手の武豊やこの本のことを書くのが本筋なのだろうが、8ページのうち前半5ページは、この題名どおりのこのうえない短編小説であった。
伊集院静の語り口は穏やかで、書き出しからカメラワークのような映像を感じさせてくれ、脚本に仕上げれば、この5ページで映画が撮れてしまうようにも思われた。
フランスのノルマンディー地方にあるドーヴィルという小市、ルーレットのゲームとディーラーの話、そして、冬の朝の海岸に現われた馬の話なのだが、この海岸へ旅したいと思わせてくれる内容であった。
さて、武豊は3月から10月までフランスに長期遠征。ダービーにはフッ飛んで帰ってくると言っているが、楽しい成果を期待したい。
暖かくなって昼の散歩にも少し馴染んできた。時には気のあった友人と雑談をしながらゆったり歩いたり。先日から水が張られていた田を何気なく見ていて、うっすらと緑色の所があるのに気が付くと、すでに田植をしたようであった。昨日はつがいの燕も見かけたし、高知の春は短い。
2001.03.29(Thu)
豊の感情の出方は極めて急激で、強烈だ。
動物と接するうえでの基本は、自分が何を考え、どう感じているのかを瞬時に相手に伝えることである。
島田明宏
■『「武豊」の瞬間』/集英社文庫
騎手「武豊」のことは多くの人がその名前を知っているだろう。この本を読まなくても、インターネットで日本中央競馬会が提供するデータファイル「騎手名鑑」を見れば、1969年 3月 15日生まれ、身長170 cm、体重50 kg、初騎乗1987年 3月 1日。2001年 3月 26日 現在の中央競馬のみを対象とした累計成績、1着1888回、2着1426回、3着1119回、4着以下5193回、騎乗回数9626回、勝率0.196と驚愕に値する数字が並んでいる。
http://www.jra.go.jp/datafile/index.html
つまり、彼が馬に接するとき、瞬時にその感情を伝える能力を秘めているのである。それはきっと言葉ではない。人間のように言葉を話さない馬に、それも瞬時に伝えるためには、もはや言葉など邪魔だろう。
かつて、言葉を話す以前の人間は、自分の思いを相手に伝えるために、身体や視線の微妙な動きだけで対応していたに違いない。そして、言葉を持った人間は、それと引き換えに失ってしまった動物的な能力もあるはずである。愛しあう人間には言葉は不要なものなのだろうか。お互いの心の中が読めるのだろうか。
「彼は物心ついてから一度も人と喧嘩をしたことがない」と聞いて、感情の出方が極めて急激な人間にそんなことができるのだろうかという疑問とともに、それをおさえる能力があるからこそ天才、いや名騎手なのだと感じてしまった。
2001.03.28(Wed)
二人の人間が月面を歩いた。
その後、他の人間たちが、その現実的な、
ほとんど現実的な幸運を前にして、言葉に何ができるのか。
ボルヘス
■海外詩文庫13『ボルヘス詩集』/訳編者 鼓直/思潮社
J.W.Borges 「1971年」と題された詩より。
それはもう30年も前のことになる。しかし、アポロ11号でアームストロング船長とオルドリン月着陸船操縦士が月面におりたったのは、1969年7月のこと。1971年と言えば、アポロ13号の失敗の後、14号、15号の話になってしまう。その後もアポロ計画で、何回か二人の人間が月面を歩いた。そして、アメリカ合衆国国旗を立て、月の石を持ち帰り、観測機器を設置し、まさに現実的な月面世界がテレビ放映されてしまった。
しかし、いつも記憶されるのは、最初の船長の名前であり、言葉である。詩人の残す言葉に比べ、現実という背景を持った言葉は、幸運にも記録され永遠に残されるにちがいない。1969年なのか、1971年なのか。そんなことは百科事典にでもまかせて、人間の頭に記憶されるのは、すでに月面をある男が歩いたという事実である。
月を鏡としてとらえていたボルヘスにとって、見えない目で見る月こそがいつまでも真実の月ではなかったか。
高知市内では名の知れた割烹旅館での宴会。楽しみにしていたのだが、思ったほどの料理や味ではなかった。金額的にある程度高ければ、それ相応のものを期待しがちであるが、これでは先が思いやられる。始まって刺身や酒を味わう時間もないうちに、皿鉢に盛られた炊込御飯が出て来たのにも閉口。しかし、返杯に次ぐ返杯、これではカロリーを取り過ぎてしまう。散歩程度では、とてもこの熱量を消費することはできそうもない。
2001.03.27(Tue)
わが宿の花見がてらにくる人は散りなむのちぞ恋ひしかるべき
みつね
■『古今和歌集』日本古典文学全集/小学館
私の好きな歌である。作者は凡河内躬恒(おおしこうちみつね)。
「桜の花の咲けりけるを見にまうできたりける人によみておくりける」の前書がある。「恋ひしかるべき」と思いをそのまま歌にするのは、やはり抒情に適した短歌だからだろうか。さびしさが切々と伝わってくる。
俳句ではこうは素直に言えないし、言ったところで、もっとモノを描かなければ見えないとあっさり指摘されてしまうに違い無い。短歌には短歌の良さ、俳句には俳句の。頭では解っていても、つい俳句の中でも語ってみたい衝動がおきるからやっかいである。
忘れていたかのようにメールが入ることがある。会って話をすれば簡単に言えてしまうことも、いざ書くとなると、一寸とおっくう。下手な字をかかなくなってすむだけましではあるが、どうしても簡単にメールが書けない。こころの中をおもいやるなんてとても難しい。やはり、書いたり話したりしないと解らないことが多い。
2001.03.26(Mon)
寒晴や未だ弔意の文字なさず 藤田湘子
■俳句雑誌『鷹』2001年4月号/鷹俳句会
飯島晴子の遺句集「平日」が4月中には上梓になるとあった。「寒晴や」の上五でまず思い出されるのは、晴子の代表句「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」である。
勿論、湘子は晴れ渡った冬空を睨み上げ、口を一文字に噤んで、愛弟子のことを思っている。年令からすれば、晴子が上であったが、湘子第一の弟子とは晴子を措いて他にいない。半年経とうと、安易な弔意の文字では表せない深い思いなのである。
晴子の第5句集「寒晴」、第6句集「儚々」に次いで、なんとさらりとした句集名を選んだことだろう。晴子の遺句集で「平日」などと言われてしまっては、これからの俳人が付ける句集名が無くなってしまうではないか。
なぜか高知市内の道路が自然渋滞。思いどうりに走れない車は嫌いである。道路から見上げれば、筆山や五台山の桜が咲いている。今年の花見はいつにしよう。
2001.03.25(Sun)
好きな人は
雲古にして
出したい。
長尾 軫
■詩集『有為無為』/アークデザイン研究所出版室
長尾軫の第9詩集より。見開きに題名、墨象、数行の詩が並ぶ。「題名がなければいいのに」と思いながら読んでいて、上の詩が目に止まった。空間と言うか、空行と呼ぶのか、何も書かない1行が効いている。この間に、どれだけの時間をかければいいのだろう。
大きな声で読むには、少し憚れる。しかし、ハンニバルのカニバリズム(人肉嗜好)ではなく、精神的人肉嗜好者の言葉なのかもしれない。題名は「片思い」。
朝から小雨。高知鷹句会3月定例会へ。上半身に筋肉痛。平日の運動不足が災いしたようだ。両肩が重くてならず、いくら酒を飲んでも治らない。
2001.03.24(Sat)
しかしもっとも優れた曼陀羅は「生命の木」として知られている。これはカルデアとヘブライの秘教の流れを汲んでいる。従来これは「宇宙と人間の魂を全て力強くつつみこむ絵文字」と言われてきた。
W・E・バトラー
■『魔法入門』/大沼忠弘 訳/角川文庫
見なれた東洋の曼陀羅とは違った図式がここには描かれていた。用語解説によれば、「大宇宙とそれに照応する小宇宙の構造を十個の”セフィロト”とその間を結ぶ32本の”径”によって象徴したもの(Tree of Life, Etz Chiim)」と言う。十字軍時代の長盾のような形のものである。
「生命の木」と言えば、旧約聖書の創世記に著わされた「生命の樹」のイメージが強いため、この図式をそう呼ぶことにやや戸惑もあるが、仏教寺院における曼陀羅のように、やはり西洋の魔法においても不可欠の要素なのであろう。時には難解な言葉よりも絵文字がよりイメージをかきたててくれる。
15時28分、高知市で震度5弱の地震を体感。ちょうどベーカリーでパンを買っていたところで、ガラスケースを挟んで店員に注文中。店員の身体が揺れ、足下から震えが起り、「地震?」の驚きとともに、店の外に後すざり。店の1階全面にはほとんど柱や壁がなく、非常に弱そうなので心配。道路の反対側から店を見上げると、鉄筋レンガタイル貼りの3階立が揺れていた。「え、え、まだ・・?」と思うほど、かなりの長さであった。揺れが収まっても、やや息が緊張気味。とりあえず、パンだけは買って帰ったが、マンション4階の部屋は、まったく無事。本棚の上に乗せていたビデオテープが倒れ、端の2本が落ちた程度であった。地震は苦手である。
修理に出していた自転車を引き取って来た。久しぶりに運動。
2001.03.23(Fri)
つぎたしの世の中ほどを花菜風 中原道夫
■『俳句研究』2001年4月号/富士見書房
「好きな色は?」と聞かれたら、黄色と答える。菜の花の黄色がことのほか好ましい。しかし、ネクタイや洋服を選ぼうとしても、男物では、なかなかこの色は手に入らない。いつしか、手に入りやすい緑が増えてしまった。ただしこちらは、菜の花の茎や葉よりもっと深みのある緑を好んでいる。
特別作品33句「百考」の中で、最もひかれたのが上掲句である。ああ、中原道夫は今を「つぎたしの世」と思って生きているのかと、何かこころひかれたのである。これも一つの境涯俳句と言ってしまっては、少し贅沢すぎるだろうか。
天文気象の季語は形象力が弱く、作るのが難しいとよく言われる。しかし、「花菜風」と読んだ瞬間、私の好きな黄色が脳裏に広がり、ズームダウンするとともに、黄色と若緑、一面に菜の花の咲く田畑、野山、麗しく安らかな春が広がってきた。
菜の花には強い匂いもなく、そのころ吹く風にも、それらしい匂いはない。しかし、まためぐり来た春への喜びは、梅の花の凛々しさよりも、桃の花のやさしさよりも、少し浮かれた、足下の軽くなるような思いに、暖かい風に誘われ、蝶のように野山に出かけたいと感じさせられてしまうのかもしれない。
この句の「ほどを」には、作者の自然への謙虚さ、ありがたさが溢れている。「つぎたしの世の中」と思って生きる限り、あらゆるものに恵まれるように思えてならない。
2001.03.22(Thu)
今週号後半カラーグラビア「スーパーリアル3Dの世界」(252ページ)におきまして、掲載されているホームページアドレスに、訂正があります。
正しいアドレスはhttp://3d.shogakukan.co.jp/です。
■雑誌『週間ポスト』2001年3月30日号より/小学館
些細なことである。しかし、モノクロ1ページを使った訂正記事である。後半のカラーグラビアページで紹介されている、http://3d.shogakukan.com/ の訂正にしては、あまりにも大きな扱いなのだ。こんな時、これは新手の広告手法ではあるまいかとついつい邪推してしまう。
ただ、「週間ポスト」のホームページといえば、www.weeklypost.com に慣れていたために、訂正の言葉の扱いがやけに重たく感じ、反対にキャッチコピーのように思えてならなかったのだ。
おりしも、当日の日経新聞で、鈴木則久率いる3次元画像処理ソフト会社「ザクセル」が動・静止画像データ容量を2000分の1に圧縮、ネットで送受信できるようにしたとの記事を読んだばかり。
興味半分で、どんなスーパーリアルのヌード画像が現われるのかとインターネットに接続してみたが、確かに訂正記事のとおりのURLであった。しかし、私のMacでは指定された3次元表示用プラグインを入れても、残念ながら画像は表示されなかった。つまり、訂正記事はMacユーザーのためのものであったのかもしれない。
ちなみに、Win機では表示されたが、QuickDraw3D 等で表示したものとほとんど変わらず、どこが「スーパーリアル3D」なのか謎なのである。
(期間限定とあったが、ユーザー:post、パスワード:post1688)
高知城、三の丸にある染井吉野の蕾みが開花。
2001.03.21(Wed)
其処に用意されてゐるのは「現代表記」に最適化された漢字と変換プログラムであり、そのやうな道具を用ゐて旧字旧仮名の文章を綴るには正しい智識のみならず、其れなりの工夫と努力があらまほしき事となりませう。
■『旧字旧かな入門』/府川充男、小池和夫、共著/柏書房
俳句や短歌を書き、発表しようとして問題になるのは旧字旧仮名の扱いである。印刷出版ならまだしも、Webサイト上ではかなり制限されてしまう。
上記本文は旧字旧仮名で書かれていたが、新字に変更させていただいた。著者両名は日本規格協会の「電子文書処理システム標準化調査研究委員会WG2委員」等も勤めている。したがって、パソコンユーザーが苦労する旧字旧仮名についてはことさら詳しい。
つまり、JIS(日本工業規格)を決める立場にいて、常用漢字表で切り捨てられてしまった漢字をパソコンで使えるようにと、あれこれ苦心されたことだろう。
同書によると、一般のパソコンで利用できる漢字は概ね、JIS-X-0208 で規定されている第1水準と第2水準の6,355字。常用漢字はすべて第1水準に入っていて、これに対応する旧字体は第2水準に入っているとのこと。しかし、それ以外の漢字は、新たに2000年1月に発行された JIS-X-0213 では、第3水準に収録されたとのことである。
従って、一般のパソコンでは表示されない漢字も、第3水準用書体を入れれば、見たり印刷したりすることが可能になったわけである。一般化するのはまだまだ先のことだろうが(一般化は無理かも?)、漢字が「読みにくい」「覚えにくい」といった理由からだけ簡略化されてしまい、自由に使用できなくなってしまうのだけは防げそうである。
どんな文章にも旧字体を使用しろとは言わない。しかし、文芸などにおいては、細やかな情感や情景を表現できる漢字を大切にしたいと考えている。われわれは言葉や記号で思考する人間なのだから。
晴天。黄砂というより霞であろう。一日中、遠方の山々が霞んで見えた。夜は俳句の五人会。新人が現れないので電話をしたところ、人事移動の対象になり、すっかり忘れてしまっていたとか。1時間遅れで到着。本句会形式で合評まで行った。
2001.03.20(Tue)
家を出て家に帰りぬ春の暮 藤田湘子
彼岸の中日、天気も良く、2カ所の墓参り。風がなく4月のような暖かさであった。鴬がしっかりとした鳴き音を聞かせてくれた。近くの藪の中にいたのだろうが、その姿を確認することはできなかった。白木蓮や紫木蓮は、もう半ば傷ついた花が多く見られ、咲き初めの清楚さはすでに無かった。
2001.03.19(Mon)
確かにそうだけど、寝ちゃったら「おしまーい」みたいな感じだもん。その前に時間かけるほうが嫌らしいよね。嫌らしくないと恋愛ってつまんないじゃない?
山田詠美
■雑誌『婦人公論』3月22日号より/中央公論新社
山田詠美と川上弘美との対談、体験的文学論「恋愛小説のおいしい楽しみ方は・・」より、少し強引な抜粋。
恋愛を料理にたとえ、鮨屋で順番に食べるのが嫌でトロだけ十個食べたいという親友でゲイの男の子に、恋愛の過程は延々オードブルが続いているようなものと言われて反論したとか。「嫌らしくないと恋愛ってつまんない」と感じる感性に共感する。
対談を文章にまとめるためには、かなりの部分が割愛されているに違いない。そして、残った文章から、その場の雰囲気や興味深い内容が残るためには、お互いに同レベルのテンションを持っていなければならないはずである。私にとって、男どうしの話より女どうしの話が読みやすいのは、やはり雑誌の性格や対象読者の捉えかたの問題なのだろうか。
新しい発見がそこに示されているわけではない。「A−POC」の青木史郎の話にしても、今回の話題にしても、私の共感できる範囲のことしか選んでいないのだから。足下からガクガクさせてくれるような言葉にはなかなか巡り会えないのが現実なのかもしれないが、心だけは錆させずにいたいものである。
2001.03.18(Sun)
彼岸とは梵語の波羅蜜多(はらみた)。生死の境を此岸(しがん)とし、功徳を成就して不生不滅の如来の法身と帰一する意である。即ち「生死の此岸を去って涅槃の彼岸に至る」という。
■『こよみ事典』/川口謙二 他2/東京美術
春分の日の前後3日間を彼岸という。日曜日でもあり、墓地近くの道路には多くの車が止められていた。涅槃の彼岸にも、一日の長さがあるのだろうか。親や祖父母から話を聞く機会のなかった私は、多くのことを書物から知った。体験の伴わない浅薄な知識ではあるが、知らないよりはましでは無いかと思う程度のものである。
快晴。気分転換に馬と遊ぶ。厩舎の前に生えはじめた若草を摘んで、馬の鼻先に持っていくと、モリモリ食べる。唇の柔らかさに驚かされるが、一度与えると催促されるのには少し閉口する。とりあえず、五頭の馬に与えたが、普段は干草や固形にした草のようなものを食べているようだ。
2月19日「はりまや盃」に武豊が高来していたが、今度は3月20日、春分の日は「黒船賞」15:45発走、ノボジャックに騎乗予定とのこと。
日が長くなったのを実感。2週間くらいですっかり変わってしまった。
2001.03.17(Sat)
「A−POC」は久しぶりに生み出された、極めて多様な解釈を導くデザインではないかと思います。
青木史郎
■雑誌『デザインニュース』253号より/日本産業デザイン振興会
新世紀デザイン対論の第1回として、Gマーク事業部長の青木史郎と哲学者の中村雄二郎の真剣な話を読んだ。青木史郎の視線は常に鋭い。
表題は「A−POC」の哲学。昨夏、東京都現代美術館で開催された「三宅一生展」でも紹介され、2000年のグッドデザイン大賞(通産大臣賞)に選定されたファッションの領域を越えた商品について述べたものである。
ブランド名の「A-POC」は、A Piece Of Cloth(1枚の布)の頭文字から取ったもの。チューブ状のニットの区切線にそってユーザーが鋏を入れていけば、ドレス、シャツ、パンツ、スカート、ソックス、下着、帽子、バッグ、手袋などが現われるといったもので、美術館で天上から吊り下げられた作品はそのスケールの大きさと、ここまで考えるかと半分感動したものである。
自分で切って着てみたいという欲求が湧かなかったのが、唯一の問題であった。
60句句会、参加者少なし。期待していただけ疲れてしまった。本来は100句句会を提案したかったのだが、控え目に60句にしたのだが、それでも無理だと考える仲間が多いということだろうか。
勿論、端から自分一人でできる同人を誘ったつもりはなく、会員の方により一層頑張ってもらおうと考えたわけであるが、こころざしの無さには驚いてしまう。やはり文芸は、衆を頼まず、自分ひとりの為を目指したほうがいいのだろうか。座の文芸と呼ばれる俳句でこれでは、連衆などという言葉は失われてしまうだろう。
近くの仲間だけで考えるとやはり少ないのは一目瞭然。やはり距離による集まりやすさなど除外して、こころざし高き者が万難を排して集うことが必要であろう。そのすべてを受け入れるわけではないが、以前、黒瀬珂瀾のWeb日誌で読んだ「乱詩の会」の参加メンバーを思い出したりしていた。
2001.03.16(Fri)
最近は神田の古書店をめぐっても探している本を見つけることができなくなったので諦めていたのだが、ふと思いたってインターネットから探してみようと考えた。結局、探していたモノは無かったが、代わりに藤田湘子の句集を2冊注文した。確かに便利になったものである。
・インターネット古書店案内
http://kbic.ardour.co.jp/~newgenji/oldbook/
夕刻から家人の実家の夜須町手結へ。愛機のPowerBookG3 も持参したが、60句句会に備え、作品を完成させないといけないので、とりあえずネット接続は中止。面白いことに夢中になり、後先を考えない性格なので、こんな時にインターネットで楽しんでいると纏まらないと考えた次第。しかし、手結漁港のすぐ近くにあり、魚が新鮮で、ぷりぷりした鮃の刺身を堪能。やはり縁側が美味しい。
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