2000.12.31

journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2000.12.31(Sun)

他者の死に支へられつつわれに落ちくるは血紅の侘助椿の花
                           塚本邦雄


■『玲瓏』第47号/玲瓏館

20世紀の最後は、やはり愛する塚本邦雄で締めよう。

私にとっても「他者の死に支へられつつ」の思いが濃い一年であった。死を、ただ悲しいものとして受け入れ嘆くだけではなく、その他者の命に支えられ今の我が在ると感じること、そして、それを次世代に伝えることが大切なのだと心しよう。

俳句も短歌も、最近は工芸まで、あまり不吉な作品や題名は避けようとしている。玄関に掛けて、迎える人達に幸いを感じて頂ける作品を創作したいと考えているためである。かつては直接的に不幸を示し、反逆的に幸せを無駄にしないで欲しいと示そうとしていたのだから、大きく思考方法が変わってしまったものである。これは俳句を作り続けた恩寵とも言えるが。

しかし、今でも安易な幸せに安住するつもりはことさらない。塚本邦雄のような歌が詠えるならば、そんなものは捨て去ってもいいのだが、それができないとわかっているから別の方法を試みようというだけなのである。「いたわりの詩人・塚本邦雄よ、永遠に吾が心に生きよ」

紅白歌合戦には目もくれず(最初だけ、夕食時間にちょっぴり見たが)、書きたまったこの日誌の整理とサイトの整理に時間を費やすのが今年は相応しい。

私にしては珍しく飽きないでこの日誌が続いている。カウンターを付けたために、読んで下さる方がいることがはっきりして、それが大きな励みになっていることは隠せない。やはり、一人よりは二人、二人よりは三人というのが欲というものなのだろうか。しかし、最終的にはただひとりの人でも読んで下さるなら幸いとしよう。このページを開いて下さった方に心より感謝申し上げます。

ball-gs2.gif 2000.12.30(Sat)

えどむらさき・えにし・エニシダ・エネルギー 風がめくりて行きし辞書なり
                           上島妙子


■歌集『茉莉花の蔓』/砂子野書房

今年も多くの方々から雑誌・機関誌・同人誌、あるいは御著書を恵贈頂いた。それらすべてに、お礼状が出せないままで心苦しい限りである。ここに記してお礼の気持ちがあったことだけは伝えておきたいと思う。(出せなかったことが悔やまれるが)

上島妙子さんのお名前とお顔が一致しない。『玲瓏』東京歌会に御出席であったとのこと。私は短歌を作っているが、残念ながら未だに一度も歌会に出た経験がないのである。宮中の歌会始めの儀式をテレビで見て、なるほど、短歌とはあのように詠唱するものかと知る程度で、もっぱら文字のイメージが頭の中で膨らむのである。

したがって、自分が作る時はその反対に、沸き上がったイメージを言葉に置き換えるだけなので、ひたすらイメージを待つことになる。このイメージは啓示のように突然現われ、次々と映像をむすび、描き留めなければ消えてしまう儚いものたちである。

「えどむらさき・えにし・エニシダ・エネルギー」と選び取る感覚。叶わぬ恋、過ぎ去りし想い、神の恩寵、いのちへの愛がこともなく並べられ、それが歌になる不思議。人の縁とは本当に不思議なものである。

カンヌ国際映画祭パルムドール(金賞)の文字に引かれ、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観たが私の好みとは大きく離れたものであった。アメリカ人監督であればまた違った表現になったであろう。星条旗が泣いていた。

ball-gs2.gif 2000.12.29(Fri)

「命」というのは。冠を着けて跪いた人が天の啓示を待つ姿と祝祷の器つまり神の啓示であり、「名」は祭肉と「のりと」を献げた共同社会への加入儀礼の姿である。「名」は天から来る。
                           石川九楊


■『書字ノススメ』/新潮文庫

かつて武士には、幼名と成人名があった。つまり共同社会への参加のためには、後見人などからの名付けが必要とされたためでもあろう。
今は戸籍名がそのまま成人しても使われているため、共同社会への加入儀礼もあやふやでよいということか。「名」の力が弱まれば形が崩れるのは当然と言えよう。

正月も近いことなので散髪。伸びてはいたが揃える程度のカットで済ませてもらった。快晴の空を渡った真っ赤な夕日が沈むと、しばし山際が虹彩を放ち、静寂の暗闇に包まれると、四日の月が惑星を従えて空にかがやいた。

ball-gs2.gif 2000.12.28(Thu)

思えばデヴュー後一作目で担当さんにナイショでロットリングですべてのペン入れをしたあの頃から
                           楠本まき


■コミック『耽美生活百科』/集英社

漫画家が自分を描く時、その多くは自虐的、あるいは茶化した表現をとる事が多い。楠本まきが自分を描けば、「危ない麗人」として何ら問題ないはずであろうが、かなり控え目である。そこが、耽美生活者になりきれない作者の弱さであろうか。

最近、書店で立ち読みできないでこまるものがコミックである。ある時代の写真集のように、ことごとく透明ビニール帯に包まれ中が見えない。(きっといかがわしい内容が多いからに違い無い)しかし、漫画家の描く絵や線に好みが強い私は、これでは買う意欲がことごとく失せてしまう。100冊手にとって、許せるのは3%ほどに過ぎないのだから当然のことと言えよう。

この本をなぜ購入したか。著者の画風を知っていたことと、装釘が題名と共鳴していたためである。私は変な漫画愛好家である。ストーリーもさることながら、漫画の罫線(写植を用いた線ではなく)のはみ出し具合を楽しみ、墨の配分やスクリーントーンの使い方に感心し、描かないで何を描いて見せてくれているのか、その空白や枠外を想像し、それだけで十分満足できるのだから。

暇さえあれば製図用カラス口を砥石で研いでいたデザイナーの職人技に感心し、ロットリングの始めと終わりの点の太さの均整美に見愡れていたことが懐かしい。

とりあえず、今年の仕事は本日で終了とした。やり残したことばかりではあるが。

ball-gs2.gif 2000.12.27(Wed)

伊東さんは、しかし、これいいです、飽きがきませんと言ってくれた。自分で言うのはおかしいのだが、飽きがこないというのは本当だった。
                           山口 瞳


■『行きつけの店』/新潮文庫

国立駅近くに、今も「ロージナ茶房」がある。俳句を作り始めて間もない頃、東京で半年ほど過ごす機会があった。折角だからと言ってT女史に誘われ、毎週、鷹俳句会の仲間が集まってくれたのが、このロージナ茶房であった。

記憶とはあやふやなもので、毎回、階段を地下へ降りて行って、広々とした船内のようなスペースでこころおきなく句会ができたと思っていた。しかし、ある上京の折、ふらりと立ち寄ってみれば、それは2階への階段であった。いつも集まるのが夜だったためだろうか、階段を降りた記憶だけがやけに鮮やかに記憶されていたのである。

私は自分で完成させた工芸作品に、30分もしない内から飽きがきてしまう。だからまたもっといいものを作ろうといつも思い続けてきた。しかし、『あの作品をもう一度見たい』と思う気持ちが、その作品の優劣の一つの基準であるとも考えている。いいものは、もう一度見たいし、確かに飽きがこないのである。奇抜で面白いものは、一時は感動もするが、見る度にその驚きが小さくなっていく。

作家が手放したがらない作品というのは、飽きのこないものだけなのかもしれない。私の手許を離れた数々の作品たちは、今はどうなっているだろう。

ball-gs2.gif 2000.12.26(Tue)

牡蠣を食ふ何たる時間不足かな   藤田湘子
                       (俳誌鷹2001.1月号より)

「何たる」と呟くところが湘子俳句の魅力。詠嘆のその重さがずしりとのしかかる。人それぞれに生き、あらゆる場面で時間不足を嘆いてきたに相違ない。試験、恋愛、就職、旅行、しかし、命の長さを途方もなく長くすることは不可能である。遣りたいこと、試みたいこと、アイデアが次々と沸き上がり、まだまだ欲がある。

師から見放され、俳壇勢力とは一線を画し、胃癌を克服し、主義主張を曲げず、挑戦し続けて、今なお開拓すべき俳句の荒野が眼前に広がっていると感じているのであろう。また、自分の手に入れた技法をおしげもなく開陳し、できるものならやってみろと叱咤激励する。

俳句や弟子にかける決意の強さがその裏に潜んでこその「時間不足」なのである。

ball-gs2.gif 2000.12.25(Mon)

戦地に赴いても生還する兵士があり、原爆が投下されても、生き残る人が現れる。誰も知らない間にノアの方舟が用意されている。
                           山内雅夫


■『占星術の世界』/中公文庫

占星術の矛盾は、三次元の立体空間を、二次元の一枚の天宮図の上に表現しようとすることから起きていると言われる。しかし、コンピュータを用いて三次元で表現できたとしても、では時間軸はどうなるだろう。蝶の羽ばたきひとつで天候が変わってしまうような多項目の条件を満たせば矛盾は起らないというのだろうか。

運命は平等ではない。しかし、科学では割り切れないような世界があるからこそ、救われるかもしれないと思うひとかけらの希望が残るのである。

言葉を知らぬものたちにも、自然淘汰と種の進化があるように。

ball-gs2.gif 2000.12.24(Sun)

あれかこれか、右か左かという選択をせまられたとき、人は自分の評価基準に基づいて決定を下そうとするだろう。評価基準は複数個あるのが普通であり、しかも互いに利害が相反する面をもっている。
                           刀根 薫


■『ゲーム感覚意志決定法』/日科技連出版社

人生のあらゆるところで選択にせまられている。そして、あの時、あの選択さえしなければと後悔している人が何と多いことだろう。私は自分の選択に後悔はしないことにしている。すべて天命。後悔してももはや手後れとわかっているから、自分を惨めにしないために、過去は速やかに忘れてしまうことにしている。

「だからダメなんだよ。もっと深刻に反省しないから、また同じ失敗を繰り返すんだ・・・」というもう一人の自分の声が聞こえないわけではないが、これだけは性格、そんなに簡単に変わるものではない。
第45回有馬記念、サラ系4歳以上。予想どうりの展開。残念ながら、これが一番嫌い。もちろん、美しい馬、強い馬が勝つのあたりまえなのだが、一番人気とは誰もがみとめる才能や力であり、他人と同じ視点でしか見えないならば、自分の存在が不用と思えてくるのである。嫌な性格だとは解っているが、やはり面白さのない人生は送りたくないのが真実。

テイエムオペラオーやメイショウドトウが嫌いなわけではない。480Kgの馬が体力的には負けている馬達を抜き去るのである。5歳にして、1,399,963,000円の獲得賞金、さてこれから何連勝してくれるだろうか。老いても強く走り続けて欲しいものである。

ball-gs2.gif 2000.12.23(Sat)

最近は競馬場に彼女を連れてくる若者が多いんだけれども、それじゃ絶対に負けるよっていうのも、よく考えてみれば実は非常にわかりやすいことだと思うんです。
                           浅田次郎


■『競馬どんぶり』/幻灯舎アウトロー文庫

邪心を持つと、きっとダメになる。わかりきったことである。しかし、その邪心による失敗こそが次への飛躍に繋がることもある。まず、失敗のもとは女性であり、馬でも読めないのが牝馬である。牡馬でさえ、そばに牝馬がやってくると実力を出し切れずズルズルと崩れてしまう。頭で分かっていても本能までは抑えきれないということであろうか。

まわりをみまわすと、確かに女性のほうが勝負運が強いように思える。邪心が少なく、まわりなど気にせず、自分の信じる道をまっしぐらに進む集中力が強いからに違いない。

めまぐるしい天候の一日であった。曇り、晴れ、夕焼けの茜を小雨が覆い隠し、心変わりの多い優男のような。さて、明日の有馬記念は何を買おう。

ball-gs2.gif 2000.12.22(Fri)

温泉街などのまんじゅう屋さんには、店先ののれんに「まんじゅう」と染めてある店と「まんぢゅう」と染めてある店がある。


■『腕の違いがズバリ!わかる本』素朴な疑問探究会[編]/河出書房新社

私は「酒飲み」というより「お茶飲み」である。もちろん酒も嫌いではないが、美味しい緑茶と和菓子には目が無い。今では、コーヒー、紅茶、ココア、日本酒、焼酎、ビール、ワイン、リキュール、ウイスキー、ブランデーと何でも平気で飲むが、それは美味しい緑茶がなかなか飲めないからに他ならない。

玉露や抹茶もいいが、値段ころあいの煎茶で美味しいものを落ち着いて飲めると十分満足する。こんなときは、確かに「まんじゅう」より「まんぢゅう」である。

ball-gs2.gif 2000.12.21(Thu)

ラテン語で canis「犬」、piscis「魚」は男性であるが、同じ -isをもつ avis「鳥」、puppis「船」は女性である。ということは、この性の区別はそのまま受けいれるほかはない事実であり、変えることのできない伝承なのである。
                           風間喜代三


■『ラテン語とギリシア語』/三省堂

世の中には「何故?」と尋ねても答えが明解に得られないものがたくさんある。本来何か理由があってそうされてきたり、そう呼ばれてきたものであるはずなのだが、今となっては誰も覚えていないような、あたりまえとされるようなものがあまりにも多いのである。

しかし、記憶力の弱い私など、できればその理由や規則性を教えてもらって、必要なときだけそこから類推したいと、安易な道を選ぼうとするものだから躓いてばかりである。もちろん、失敗しないための「おまじない」と言って教えられても、その呪いさえ忘れてしまうのだから始末に終えない。

21日は冬至。毎年、柚子湯に入るのが習わしであった。今年も大粒の柚子を2個手に入れ、しっかり柚子湯に浸かるつもりでいたのに、仕事をしないで遊んでいたためか、すっかり明日だと思い込んで入りそびれてしまった。22日に入ったのでは、その効果が半減してしまいそうだ。残念。

ball-gs2.gif 2000.12.20(Wed)

時雨やみほのと暖かなりしかな   高浜虚子

ふと気付くと愛機のPowerBookのバッテリー残量が30分を切っていた。コンセントに繋いでいたので減るはずはなかったのだが、これはおかしい。否、ヤバイと言うべきか。このままでは立ち上がらなくなる。あわてて、AC Adapterを調べたり、コンセントの差し込み口を調べたり。毎日コードを堅くくるくる巻きにしていたため断線してしまったのかもしれない。

急遽友人のところに持ち込み、テスターで調べてもらったが、やはり断線状態。応急にハンダ付をしてもらったが、そのためにプラスチック部分を破壊してしまったので、元のようには使えない。

専門店に電話しても同じものがすぐ手に入る様子もなく(早くて正月開け以降になるとのこと)、結局、円形のPower Adapterを購入することになってしまった。高い。欲しいのは断線したジャックコード部分だけでAdapterなど必要ないのに形状が異なり使えないのだ。頻繁なモデルチェンジのためだが、それらにも対応した部品供給体制だけは構築して欲しいものである。せめて7年くらいは今の愛機を利用したいと思っているのである。あと4年、大丈夫かしら。

虚子は「俳句も文学になりましたか」と言ったそうだが、残された俳句は7年どころか永遠にのこっていきそうである。短い語句を口から発し、耳で聞き取り、いいなーと思い、また繰り返す。俳句の部品のひとつが季語なんて言わないで欲しい。

ball-gs2.gif 2000.12.19(Tue)

色は感覚である。そこでニュートンは、「言うなれば光線には色はない。光線には、それぞれの色の感覚を起こすある種の力と性質があるだけである。」と言った。「光線に色はない」とはニュートンの名言である。
                           金子隆芳


■『色彩の科学』/岩波新書

たとえば、赤いと感じる色を他人とどれだけ共感できているのか、はなはだ疑問に思っている。人間であり、日本人であり、同じような遺伝子配列から視覚細胞や視神経ができているとしても、色の認知は成長過程で親やまわりの者から、「こんな色を赤と呼ぶんだ」と教えられ、そう言っているだけなのだから。

そんな不具合を何となく感じるようになったのは、近眼の眼鏡やサングラスが必要になってからのことである。確か小学1年の時は、視力2.0。高校時代から夜型の生活をおくっていたためか、大学からは眩しさよけのサングラスを愛用。

サングラスを掛けて絵を描いても、赤い絵の具は赤く、赤い木の葉は赤く見え、それが自分の世界の色なのであった。ふと目のゴミを払うために眼鏡をとると、少し色鮮やかな世界があり、隣の男は私と違う色を赤と呼んでいるのかもしれないと不思議に思えるのである。

視力の衰えを補うためやや強度の眼鏡に変えてみると、これまでより遠くのモノの輪郭がまたはっきりと顕ち現れてきた。しかし、色が変わるほどのものではない。色彩判別能力視覚検査を行えば、私の見えない色を感受している幸せな人間がたくさんいるに違いない。それが、聴覚における雑音のような雑色であったとしても。

ball-gs2.gif 2000.12.18(Mon)

円盤のカマンベールをほおばれば四面楚歌なり二人の秋は
                           森田志保子


■雑誌『短歌研究1月臨時増刊号』創刊800号記念/短歌研究社

うたう作品賞受賞作「風の庭」より。インターネットを利用した作品募集や候補作選考、選者との双方向性の試みなど、21世紀にむけて短歌新人賞のあり方の模索もうかがえる増刊号である。

30〜50首均一な秀作を並べることは容易なことではない。ならばその中に少しでも可能性の秘められた歌や作者を捜し出し、声をかけることによって作歌意欲を高めていこうと考えた結果なのだろう。こころやさしき選者たちなのである。総合誌といえど、ただ落すばかりで話題性がなければ、応募者が集まらなくなったのだろう。

私の選んだカマンベールの歌は、森田志保子の中では短歌的に出来過ぎていて平凡かもしれない。しかし、「円盤のカマンベール」は可笑しいし「秋は」の結句は何か感じさせてくれるものがあった。

江東区を初めて地図でみたときのようこのひとを護らなくては
                           雪舟えま

このような歌もあった。なぜ江東区かは解らなかったが、上京前に地図でも広げた時を思い出したのだろうか。しかし、江東区って面白い。さて、護られるのはだれ?

日曜日に降り続いた雨で、木々の枯葉がすっかり落ちてしまったようだ。見上げると枝の隙間が淋しそうであった。久しぶりにバイオリンとピアノの音色を楽しみ、そして岩手産生牡蠣を堪能。

ball-gs2.gif 2000.12.17(Sun)

そして、全くの私事だが、ペンネームをここから採ったので、是非一度改めて読んでみたいと思っていた。
                           水原紫苑


■『空ぞ忘れぬ』河出書房新社

何と記憶のあいまいであることよ。一昨日、立ち読みした本を「空ということ」だったかと描いたが、市内の本屋で背表紙を見て恥ずかしさが込み上げてきた。深謝。
水原紫苑−>能−>世阿弥−>花伝書−>空(くう)といった連想が強く作用していたようだ。
水原紫苑−>短歌−>馬場あき子−>式子内親王−>ほととぎす−>空(そら)の連想で「空ぞわすれぬ」に到らねばならなかったようだ。しかし、これも楽しい。

忘れねば空の夢ともいいおかん風のゆくえに萩は打ち伏す  馬場あき子
時鳥そのかみやまの旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ     式子内親王

著者のペンネームは石川淳の小説『紫苑物語』から採ったとのこと。少し理解が深まった。この名前や花への思い入れが、似た感性の持ち主をその磁場に引き付けてやまないのであろう。

ball-gs2.gif 2000.12.16(Sat)

「両界(両部)マンダラ」の基本的なイメージを図解してみると、円形または方形に区画された場所、あるいは空間を想定することができる。
                           真鍋俊照


■『マンダラは何を語っているか』講談社現代新書

曼陀羅とはあの壁に吊るした仏像が一杯描かれたの掛軸のこと、平面の円や四角で表わされた、少し違ってもチベットの僧侶が色砂で描き、もったいなくも完成すれば消し去るものくらいにしか思っていなかったので、直方体や半円球、円柱、円錐の図を見せられると、少し新鮮であった。

以前にも立体化された伽藍配置などの図は知っていたが、それはあくまでマンダラに似せて伽藍を建築したに過ぎないとさほど気にも留めていなかったのである。

悟りの本質、目に見えないはずの仏性を「かたち」にあらわそうとするのだから、どこまで信じていいのか解らないが、どうも平面よりも立体のほうが面白そうだ。さて、時間軸はどうやって表わすのだろう。悟りには時間軸も消し飛んでしまうのだろうか。

何だかゆで卵を半分に切って、ぱくっと一口に食べたい心境になってしまった。色、匂い、音楽、それらも含まれるに違いない。性欲ももちろん。

私のまわりの自然は、すこしずつ空気を冷やしているようだ。運動不足を何とかしなければ。信号ひとつぶんの散歩だけではカロリー摂取過多から抜けだせない。

ball-gs2.gif 2000.12.15(Fri)

浜松町貿易センタービル別館の大型書店、詩歌俳句コーナーで時間待ちの立ち読み。驚いたことに歌集1冊、句集2冊くらいしか置いていなかった。入門書や解説書はあるのだが、文芸としての作品集がなくては始まらない。

毎月、私の手許には数冊の歌集や句集、関連誌の贈呈があるが、限定300〜500部くらいの印刷のものがほとんどである。そこで、一般書店になくても大型書店なら何か興味深いものが手に入るだろうと思って期待したのだが、この書物の山のなかにたった3冊くらいしかないとは侘びしいものである。

やはりこれからは「インターネット詩・歌・句集」にして専用サイトから検索できるようにするか、Web詩歌館から見本作品を閲覧後、気に入ったものがあればPDF形式の作品をダウンロードできるようにする必要があるのではなかろうか。

水原紫苑の評論集を手に取りながら買いそびれてしまった。確か題名は「空ということ」だったろうか。検索して購入しよう。

ball-gs2.gif 2000.12.14(Thu)

前世にも日向ぼこりに飽かざりし
                           相生垣瓜人


仕事で上京した。1年に何度か上京するが遊びのほうが多い。さすがに3KgもあるPowerBookを持っていかなければならない仕事ではなかったので助かったが、空港の所持品検査で鞄の中の3cmほどのスイス製のアーミーナイフが発見された。これまで一度も咎められたことのなかったもので、小さな鋏が付いていて重宝していたのだが、必要がなければ本人さえも忘れていたようなものである。

初めは爪切のようなものとX線に捉えられたらしいが、爪切は常備してはいないのでワインオープナーのことかとも思われたが、これは羽先が円形の回転式のものなので問題ないとのことで、鞄の底を掻き回された挙げくがナイフであった。

しかし、何千個と通る鞄の中から、こんな小さなナイフを発見するとは、検査官の仕事とは大変なものである。私には到底勤まらない仕事、前世から日向ぼっこの好きな人種なのである。

ball-gs2.gif 2000.12.13(Wed)

それがこの明るい三角形のはなし。サン・テグジュペリ自身の筆になる表紙が、まさにこの星空なんだそう。本棚の奥から引っ張り出してみると、なるほど輪っかをつけた星と大きい木星っぽい星と、丸い星の三角形が描いてあった。
                           蓮見暁


■インターネット『彷徨』2000/12/6 より

私の愛読する蓮見暁さんの日記ページに星の話が載っていた。木星、土星、そして牡牛座の一等星アルデバランによる三角形とのことである。

昨年買いそびれた岩波CD−ROMブック「星の王子さま」をたまたま書店で見つけ買って帰ったが、残念ながら表紙の絵は違うもののようであった。3次元アニメーションを利用した新しい表紙にもそれらしき片鱗は見えるが、中の絵本からは星が消えてしまっている。

しかし、CD−ROMを私のMacに挿入し、起動させてがっかりしてしまった。予告編で見た時は面白いと感じたアニメーション手法がうるさく感じてしまうのであった。今の子供たちは、このCD−ROMをあやつりながら大人になっていくのであろうか。マウスをクリックするなど能動的であることと、物語の行間を読む時間を大切にすることの間には言い知れぬ深淵があるに違いない。

ball-gs2.gif 2000.12.12(Tue)

「夏井いつきにくれてやった賞金は無駄ではなかったと言っていただけるだけの活動や作品を残していきたい」と、授賞式のスピーチで思わず言ってしまったので、せめてその言葉だけは守ってゆかねばと思っている。
                           夏井いつき


■雑誌『俳句研究 年鑑2001年版』富士見書房

角川の俳句年鑑を取り上げたのだから俳句研究の年鑑も取り上げねばとページをくったが、さて、あまりにも読み物が少なすぎる。毎年同じ企画で年鑑としての普遍性を持たせることも大切だろうが、原稿の依頼方法があまりにも画一化しすぎているのではなかろうか。作品展望と題した俳人年代別鑑賞では執筆者の意見が少なすぎるように思えた。また、「今年のトピックス」6人の執筆者に与えられたのはたった1ページである。これでは深い思索など表現しようとすることもできない。もったいない話である。

「第五回 中新田俳句大賞」授賞式のスピーチとのことである。プロゴルフや競馬にくらべれば雀の涙ほどの賞金であろう。それだけ観客動員数が少ない(一般社会人からの注目度が低い)のだから仕方ないことではあるが、スポーツとは異なり文化とはきっとそういうものなのだろう。現世利益を求めるには寂しいことであるが、賞金ではなく賞が「無駄でなかった」と言われる作品や評論、活動に期待したい。

ball-gs2.gif 2000.12.11(Mon)

なにかの折に頂戴した私信を綴ってゆくと、飯島晴子がとうに現俳壇の諸現象に失望していたことがわかる。いまの俳句の状況には、たしかに文学文芸の世界のこととは思えないような妙なことが多々ある。
                           宇多喜代子


■雑誌『俳句年鑑2001年版』角川書店

巻頭提言「一年を回顧して」と題された宇多喜代子のとらえた飯島晴子の死と、この四十年の女性参加俳句の時代に対する感じ方には少なからぬ共感を覚えた。

飯島晴子の俳句を読まず、藤田湘子先生にめぐり会っていなければ今の私はいない。川端康成の死を受け入れた時と同じように、私の受けた晴子の死の衝撃は、後から俳句研究の独占取材記事を読んだ時のほうが肚から込み上げてくるような強い悲しみに襲われた。

しかし、哀しみは哀しみにしか過ぎない。私が晴子から与えられたものは、文学文芸の世界と自分を信じる力であり、得たものを自分一人のものとして満足して終わらないということなのである。現俳壇に失望しても、俳句に失望する必要はない。

ball-gs2.gif 2000.12.10(Sun)


時雨。昨夜の酒がまだ尾を引いていたためか、目覚めがすっきりしない。見るとはなく窓の外の電線に目をやると、白い水滴がふぞろいに現れ、ある大きさに達すると落下していく。ただそれだけのことである。しかし、白く膨れ、並び、落ちていく繰り返しに見愡れてしまう。雨がさほど強くなく、凝視しなければ見えぬほどの降りようなのが幸いしているようである。

雨粒というより天粒と呼ぶべきものか。白い頼り無い存在でありながら、ある輝きをもって一時そこに確かにある。しかし、数分もしないうちに、それが天命でもあるように落下していく。まさに命とはそんなものなのだろう。生まれ、落ちるまでのながさは、あるものにとっては永く、そしてまた短くも感じるものなのだろう。

午後から少し曇り空となり、夕方にはかなり明るくなった。

日没後、幻想的な夜が訪れてきた。
峠に車で登ると、4時半頃、雲の向こうで夕日が沈みはじめる。夕日は見えないが、雲の色でそれと察っせられる。日没であたりが急に暗くなっても、西空には茜色が横に棚引き、眼下の市街地を霧がおおい隠し、山の稜線だけが霧から突き出して黒々と低く連なり聳える。ふり仰げば月が高く登り、脇星を従え白く輝いている。

雲海なのか霧なのかと疑っていると、急速に霧が立ち上りはじめ、こちらへと広がりはじめ、まわりの建物も車も草木もおおい隠してしまった。車のヘッドライトの軌跡だけが霧を薙ぎ払う。月は霧の中に浮いている。頼り無い明るさである。

峠を下り始めると、急に霧がはれ、市街の夜景が眼下に広がり、あの霧の後もない。月は輝きをとりもどし、丸く丸くなっていた。

ball-gs2.gif 2000.12.09(Sat)

理屈で知っている「水平線」の存在、つまり「そこに見えているものが、そこに無い」という原理を、ただひたすら、そこに在ると信じきれる力が、生を生たらしめる。
                           長澤忠徳


■『インタンジブル・イラ』サイマル出版会

信じる力の強さが生命力の強さと一致するのでは無いだろうか。デザイン・コンサルタント、長澤忠徳の世界に一歩足を踏み入れると、見えないものの力、触れられないものの力を感ぜられずにはいられない。

水平線を追いかけて、夢を失わないこころこそが、新時代を開く扉へのキーワードではなかろうか。

ball-gs2.gif 2000.12.08(Fri)

私はそんなことを余念しながら、その夜、知己へ投函する暮れの消息に、植物園からもち帰ったフウの落ち葉を忍ばせた。
                           松本章男


■『京都 花の道をあるく』集英社新書

京都の落葉樹のなかでは、マンサク科の落葉高木、フウが紅葉の掉尾を飾ってくれるそうである。今が見頃ではなかろうか。

いつでも旅行できると思っているためか、足が遠のいてしまうことがある。京都など行こうと思えば航空機で日帰りできる距離にある。しかし、そう思うこころとはうらはらに、やはりあてなくふらふら歩いてみたい思いが強い。
観光地としてではなく、庭先の花や樹木、苦味の強いコーヒーを求めあてなく歩くのが好きなのである。目的を持つとどうも縛られてしまうようで、紅葉を見ても「この紅葉を見るために来たのだから美しくてあたりまえ」となって、賞賛の気持ちが何割か少なくなってしまうような気がしてならない。

土日ではなく平日、いや曜日も忘れてしまって、北へ向うのが楽しい。

ball-gs2.gif 2000.12.07(Thu)

暖かさが腹立ちを溶かして少しの悲しみに変えてしまうこと。単に良い酒を置いている店には、この芸当はできないのである。
                           山田詠美


■『ニッポン居酒屋放浪記 立志篇』太田和彦/新潮文庫 の解説より

この季節になると山形に住むKOBAちゃんから必ず新鮮な林檎が一箱届く。彼は芸大卒業後、青森に住んでいたため、今でも青森県産りんごを贈ってくれる。表面はまだ堅く、それでいて中には蜜があふれそうになっていて実に美味しい。

しかし、いつも受取には一苦労で、必ずと言っていいほど不在配達票が玄関ドアに挟まれている。一昨夜も3種類。重い林檎を何度も4階まで上げたり下げたり、本当に御苦労なことである。電話すると玄関に置いてくれるようになったが、未だに郵便小包は置いたままにはしてくれない。そして、郵便局へ取りに出かけても、駐車場は満杯、そのうえまた窓口では待たされ、配達票ばかりか免許証やら印鑑まで必要なので、責任感のある仕事とは解っていても受取るまでには時間と手間がかかり、またまた、お礼の挨拶が遅くなってしまう。

インターネットで品物が簡単に申し込め、カード決済が可能になっても、受け取りが大変なままではどうもいけない。IT革命って、そんなところはどうなるのだろう。

居酒屋放浪記は新潮社の雑誌記事をまとめたものだろうか。著者はグラフィックデザイナーで、今は山形の大学教授。カメラマンの田村邦男氏と同行していたようだが、取材旅行となるとゆっくり地方の居酒屋が楽しめなかったに違いない。
そんな訳で、山田詠美の解説から引用させてもらった。山形はもう雪だろうか。

ball-gs2.gif 2000.12.06(Wed)

結婚して半年くらいから、ぼくは妻に月給を払ってきた、はじめ一万円、少しずつ上って現在は八万円である、・・・・・・・。
                           野坂昭如


■『人称代名詞』野坂昭如/講談社文芸文庫

彼のセンテンスは長い。句読点で切っても良さそうなものだが、早口でまくしたてる雰囲気を出すには、長々と続ける必要があるのだろう。

妻に月給? はて、そんなものか。金額も少しずつ上がってゆくのか。
家人には月給など一銭も払った覚えがない。全くの独立採算性で、家賃は折半。もちろん家賃は銀行から全額自動振込みなので、その半額相当が毎月コーヒー缶に入れられることになっている。

ふと財布の中がさびしい時や旅行前は、そこから私のポケットに移動する訳だが、何だか凄くもうけた気分になってしまう。

夕食もおごったり、おごられたりで、店を出てから、財布をしまう相手に「ごちそうさま」と言うのが決まりのようになっている。そして、今晩は別々の財布から、レジの店員にその金額が支払われた。

ball-gs2.gif 2000.12.05(Tue)

萩白し胸中の弦締めにけり    加賀東鷭
刈田風祷の忘我美しき
水郷や接岸のたびばつた跳ぶ

                         (俳誌鷹2000.12月号より)

俳句は一句勝負である。しかし、また一方、並ぶことによって、作者と空間や時間が共有しやすくなるのも事実と言えよう。

宮崎の俳人・加賀東鷭のロマンがこの三句から匂い立ってくる。洒落たシャツに折皺も鮮やかなズボン、それもサスペンダー付き、ただし、白靴・白上着とまではいかないが、なかなかの伊達者。東鷭が胸中の弦を締めたと読むより、視線の先、白萩のこぼれそうなあたりに佇む女性が思いを定めた顔つきをしたのを読み取ったということであろうか。

また、この女性の祈りの姿がただただ美しかったと伝えてくれるだけで、稲藁の乾燥した匂いがいっそう風に乗って運ばれてくる。

水郷の舟に誰と一緒に乗っていたのかなどと問いたださぬのが大人というものだろう。しかし、また酒を飲む楽しみが増えてしまった。

ball-gs2.gif 2000.12.04(Mon)

「現代工芸四国会」高松三越展の作品搬入、展示。
車の運転は苦手なので、Tさんにお願いして同乗させていただく。
金工のM教授も同乗。先日、小豆島へ行くために通った道を再び走る。山間部の紅葉が美しい。黄櫨や漆の木がほとんどだろうが、赤く染まっているだけで、山々の情景が違ったもののように感じられた。やはり落葉広葉樹があると嬉しい。
瀬戸内の山陰に沈む夕日も見た。

会員の作品で、小ぶりながらひかれる漆芸小額があった。
風景・・・、おむすび型の赤い山の手前に海が広がり、その手前に灯台と、自分の立っている土地があるといったありふれた題材でありながら、やけに赤い山(島かもしれない)が美しいものであった。

こった技巧よりも一目で好きになれるものがやはりいいと思う。
サイズを競うばかりで内容の乏しい作品が多くなっているように感じるのは、材料がふんだんに使える豊さの影響なのだろうけれど、限られるとより真剣にならざるを得ない良さもある。

かつて高い七宝釉薬が買えなかった私は、裏黒を表に多用していたが、そのため赤い釉薬が引き立っていたように思う。

今は白い釉薬を多用している。何故だろう?

ball-gs2.gif 2000.12.03(Sun)

テレビを見ながらゴロ寝する日曜日は最高である。
                            小石雄一


■『週末の価値を倍にする!』PHP文庫

わかっていることを言われると腹がたつ。しかし、自分にとって都合のいい言葉は別である。

昼まで寝て、ゆったり新聞を読みながら風呂につかり(もちろの今日の新聞ではない)、髪を洗って食事に出かける。
パジャマ姿でテレビ映画も一本見たし。最高!!

どうも窓がラスの汚れが気になる。昼から雨も上がりそう。
ガラス拭きでもするか。それから、本の片付け・・・・となると、最高の日曜日がたちまち普段どおりに戻ってしまう。

しかし、朝の雨が上がり、この土の湿り具合、水たまり、申し分無し。自分の身に雨さえかからなければ何も問題はない。かくして、私は昼から行動を開始して外出、ゴロ寝に次ぐ楽しみを享有したのである。人生は楽しい。

ball-gs2.gif 2000.12.02(Sat)

一方、これが男のものなのかと、わが眼を疑ったほど美しかったのが、亡き加藤唐九郎さんの指だった。                   高橋 治

■季刊『銀花』第124号/文化出版局

銀花には、「手をめぐる400字」と題して、毎回、4名の自筆原稿がそのまま印刷掲載されている。著者の字は、万年筆使用、やや縦長小振りである。あまり読みやすい字とは言えないが、書き慣れていて、筆が走るタイプのように見受けられた。しかし、200字詰め原稿用紙2枚にすっきり入っているということは、下書きが1枚くらいはあったことだろう。題名と名前、そして次の1行の空白が見事であった。

加藤唐九郎の指は長かったようだが、私の指は短い。ある人に、職人には不向きな手であると言われたことがある。両手の親指と人差指で円を描けば、それが男物の汁碗の大きさだと。私の指では女物の汁碗でもとどきかねるといった有様で、あきれ果てたようであった。しかし、指が短くても別段不自由しているわけではないので、あまり気にしないことにしている。

もちろん、パソコンのキーボードを打つには何も問題がない。遅いだけだが。

ball-gs2.gif 2000.12.01(Fri)

しばらく前、サルトルがクノーに「シュルレアリスムはあなたに何を残したか」とたずねたとき、いみじくもクノーはこう答えた。「若かったという印象だね」。

■『ドゥ マゴ物語』アルノー・オフマルシェ/中条省平 [訳]/Bunkamura

誰もが「若かった」と答えるとき、自分が年老いたことを嘆いているとばかりは限らない。しかし、ほとんどの人の言葉には溜息まで追加される。なぜ?

やはり肉体的老いが切実に感じられると、振返る度合いが強くなるのだろうか。あまり振返っても現実は変わらないので、とにかく今を楽しもうと考えている。
美味しい酒は40代からではなかろうか。

「闊達なる詩(うた)ごころ」

そう、小事にこだわらず、何事も前向きに考え、自分を大切に生きるのが一番。
身勝手な男のたわごとと言われようとも。

 


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