「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2000.11.30(Thu)
家を出てゆくなら冷静なときに。(クリスマスの夜の情景)
■『地上より何処かで』配給20世紀フォックス/監督:ウェイン・ワン
昨年のアメリカ映画を見た。
映画のストーリーは、たわいない母と女子高校生の話。
ウイスコンシン州の田舎から、離婚してビバリーヒルズへ黄金色のベンツで向う助手席に座る娘(ナタリー・ポートマン/スター・ウォーズに出ていたかしら)の被っていた帽子が、私愛用の緑の野球帽と似ていた。映画の中では、誰も気にとめないような、こんなつまらないことを見るのが大好き。
私のもうひとつの愛用はベレー帽(夏用と冬用)である。さすがに普段からベレー帽ではオシャレ過ぎるので、もっぱら俳句吟行用に使っている。パナマ帽も持っているが、これはなかなか被れない。太陽が天敵なので、やはり普段は野球帽が多い。
母親役のスーザン・サランドン、ずいぶん年をとってしまった。「華麗なるヒコーキ野郎」の頃にはもう戻れないが、やはり金持で贅沢な服装が似合うようである。
2000.11.29(Wed)
例句は「蝶」の前身「海嶺」の創刊号以降「蝶」124号までの誌友の作品及び誌友からの応募によるものを中心にしたが、・・・・・
たむらちせい
■『蝶歳時記』編纂たむらちせい/蝶発行所
蝶主宰者のちせいさんから『蝶歳時記』を御恵贈いただいた。
としよりをさそう寒暮の水えくぼ 揚田蒼生
抱擁し前世を鶴と疑はず 山下正雄
など、懐かしい句が随所で煌めいている。
今は亡き蒼生さんは、私を俳句に導き、鷹の飯島晴子さんや藤田湘子先生に引合わせて下さった。また、亡くなる少し前、自分が編集に携わった「海嶺」の創刊号からのものを「大切にしてください」と言って私に託して下さった。私の本箱はもう満杯を遥かに越えているが、捨てられない貴重俳誌である。
2000.11.28(Tue)
ライオンがデザインされた物なら何でも買ってしまうという癖を持っている。ただし、悲しい顔をしているライオンに限る。
山本容子
■『ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き』徳間書店
山本容子さんは銅版画家。売れっ子になってからは、雑誌、テレビなどいろいろなところで活躍しているので、本職が何か不明になりつつあるが、この「本職」なる言葉自体がお役所的であまり好きではない。人間だもの、いつまでも同じことばかりやってはいられない。しかし、版画家と言うより、やはり銅版画家と言えるのではないだろうか。
癖は繰返されて癖になる。当然のこと。集め始めると何故か気にかかるようになるから不思議。しかし、悲しい顔のライオンなどそう多くはないだろう。心理学的には、自分が悲しいライオンに見られたいという願望のあらわれとも解釈できるのだが、さて、著者はどうなのだろうか。さびしがりやではある。
自宅に迷いこんだ犬に「ルーカス・クラナッハ」という大層な名前を付ける感覚がとても愛おしい。月刊雑誌『おとなぴあ』の表紙カバーの版画イラストレーションも、色彩豊か、自由奔放で楽しい。
2000.11.27(Mon)
女としての賞味期限・・・43.9歳
■雑誌『日経WOMAN』2000.12月号/日経ホーム出版
家人がノートパソコンを購入しそうな気配である。そのためか、最新モデル機種が紹介された雑誌を読んで比較しているようだ。
テーブルの上に置かれた雑誌を広げると、「ハッピー・シングルライフ」が、もうひとつの主要テーマであった。その中に、タイムリミットとして、
結婚・・・37.1歳
出産・・・33.7歳
そして上記の「賞味期限」である。
なんなんだこれは。
2000.9月にシングル女性にアンケート実施、有効回答1305人の平均値ということらしい。何という失礼な質問なんだ。よくもこんな質問に答えたものだ。回答者は、きっと500円の図書券くらいしかもらっていないはず。よくもこんな質問を考えたものだが、また答えるほうもどうかしている。牛乳や卵ではあるまいし。賞味期限を過ぎても味が落ちるだけで、まだ大丈夫というのも、またまた失礼な話である。こんなアンケート、「馬鹿!」とどなって、破り捨てるべきだ。毅然として。
男としての賞味期限?・・・・・・バカヤロー!!
2000.11.26(Sun)
女人とも淡くなりけり新走 藤田湘子
(俳誌鷹2000.12月号より)
近頃では「新走」(あらばしり)なんて言わなくなったから、俳句でも作っていないと解らないかもしれない。その年に採れた新米で醸造した酒、新酒のことである。
白く濁って、まだ炭酸ガスが残ったほどよい酸味があり、新酒独特の鮮やかな香りが漂ってくる。酒造場でしたたり落ちる雫を受けて一度飲んだら忘れられない。
「日本酒のボジョレヌーボーのことだよ」とでも言っておいたほうが解りが早いかもしれない。(ワイン愛好家の方、知らないわけではありませんが、お許しのほどを)
あとは説明の要らない新名句である。湘子先生は女人とのかかわりの句を実に上手く詠まれる。この「けり」がいいんだよなー。季語「新走」とは絶妙の間合にある。
2000.11.25(Sat)
たとえば長寿の象徴の「鶴」の字をつけた酒名は現在約250もあって第一位、第二位が「正宗」・・・・
小泉武夫
■『日本酒ルネッサンス』中公新書
酒屋が酒の銘柄を決める場合、酒造家・蔵元にちなんだものもあるが、最も多いのが今も昔も縁起のよい銘を付けるというものらしい。
最近は、鶴や亀は寿命が長いからそれにあやかろう、といった名付け方は流行らないようにも思うが、250銘柄もあると聞かされると驚いてしまう。もちろん高知にも「土佐鶴」や「濱乃鶴」など有名な酒がある。
しかし、酒造りや酒販においては、それだけ縁起に寄りかかろうとする気持ちが強かった裏返しともとれる。また、類似名が多い安心感もあったかもしれない。
今では幻の酒となった「月下美人」(決してサントリーではない)のようないい名前、洒落た容器&ラベル、美味しい酒も土佐にはあった。
高知にも昔はごくあたりまえに鶴が飛んで来たのかもしれないが、今では鶴が飛んで来ただけでニュースになっている。いくら優れた近自然工法と言って河川を改修したところで、野鳥の餌場が少なくなったのは明らかである。
2000.11.24(Fri)
玄関にクリスマスプレゼントが置かれている。
家人に頼んで買ってもらったものである。
緑の包装紙に赤のリボン、クリスマスカラーが美しい。
もちろん中身はわかっている。
高価なものではなく、ほんとうにささやかなものである。
しかし、この包装の見事さよ。
ECOデザインとは呼べない。
過剰包装である。
これはこまる。
されど、されど、この夢だけは、エコデザインでは包めそうもない。
これは、物質文明の毒に犯されているためだろうか?
天上には無数の小さな小さな星が広がっている。
2000.11.23(Thu)
錦木の実もその辺も真赤かな 高浜虚子
祝日。
最近、何の祝日とは考えず、単なる休日と思うことのほうが一般的になってしまった。農耕暦と現代のカレンダーが離れ、テレビ中継の人間が多数決で祝日を決める場面など見せられたためだろうか。
未成年には国会中継及び国会関係の報道番組を見せてはならない法律が必要。
あんなに面白いものは子供には毒。
午後から城西公園で、あめんぼうが流れているさまを飽きず眺めた。流れのゆるやかなところではなく、小幅になった少し速そうなあたりを群がって泳いでいた。まさに動くジグソーパズル。
まだ銀杏の黄葉や紅葉には少し早かったが、池の中の睡蓮の葉は真っ赤であった。
2000.11.22(Wed)
天照大御神が「鏡は私だと思え」といっていることから、単なる鏡ではなく、コンピュータの周辺装置で鏡のような構造をした出力ディスプレイ装置ということになる。
山田久延彦
■『真説古事記−−コンピュータを携えた神々』徳間書店
仮説論理学・・・一見”いかがわしい”仮説こそ科学技術本来の身上ではないかと考え、著者は古事記の内容を読み解こうとしている。このような夢のある書物が私にエネルギーを与えてくれる。
ふと、白雪姫の物語の中で、女王が鏡に問いかけていた場面を思い出してしまった。あれは、デジタルカメラ付のディスプレイ装置で、鏡に写った人間は異空間においてバーチャルならざる動きができたのではないか。それなら、この世で一番美しい顔へのモーフィングも簡単である。
2000.11.21(Tue)
それまでは紫式部も清少納言も松尾芭蕉もだれもかれもみんな、「、」や「。」をつけずに書いたのです。
大岡信
■雑誌『俳句研究』2000年12月号/富士見書房
明治の初めになって「小学国語読本」で採用されるまで日本人は、「、」や「。」を使ってこなかったとのこと。
え、そうだったの。古文書なんて読む必要もないし、学校の古典で習った源氏物語や枕草子にはあったから、昔からあったと思っていた。知ったからどうということはないが、本当なの?その話。
家人曰く、「そんなの常識じゃない」
テレビのミリオネアだったか、一千万円を目指すクイズ番組を見て、常識問題でしょ、そんなのと笑っていられないことが山ほどある。自分に興味のないものは記憶の片隅にも残っていない。
2000.11.20(Mon)
やはらかき蒲団を足に蹴るときの闇夜の薔薇きみとわがため 野崎雪子
■歌集『螺旋の檻』玲瓏館
(注:氏名の崎はつくりの上部が立になったものである。外字のため御寛容を)
このように歌われたたならば、鶴首に挿したたった一本の薔薇(しゃうび)であったとしても、薫りとともにその幻影がたちあらわれてくるであろう。ロマンティシズムというより繊細で上品なエロティシズムの溢れる歌でありながら、「きみとわがため」の結句からは何ものも寄せつけぬ作者の詩歌宇宙が感じられる。奇抜な言葉や虚飾はまったくないが、それゆえにこそ、いつまでも心の中の震えが伝わってくる。
初冬らしい冷たい小雨が降り続いた。
2000.11.19(Sun)
小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。 三島由紀夫
■『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮文庫
サラブレッドの脚はどうしてあんなに細いのか不思議でならない。
人間の脚と比べるからそう思うのだろうか。すぐに折れそうなほど確かに細い。
はかなきものが美しいといって、そんな血統を作ったのも人間であり、その走る姿に見愡れるのも人間である。雄馬よ、可愛い牝馬にだけは惑わされないで欲しいものである。
昨日の絹層雲とはうって変わって、雲間からわずかに青空が見える程度の曇り空。放射冷却が少なく、雲があるだけわずかに暖かいとも言える。夕暮れが早くなって、5時頃には山の彼方に、雲中で見えないながらも夕日が沈み、薄茜紫の色が広がる。そして、またたくまに闇に包まれてしまった。
2000.11.18(Sat)
青柳公園の方向からチェーンソーのような甲高い物音が響いていた。何だろうと近寄ってみると、クレーン車に乗ったヘルメット姿の男が、次々に樹木の枝を切り落としていた。枝といっても、中には幹と呼べるようなものまであり、高さ10mを越えようとしたものはそこから先がすっぱり切り落されていくのであった。すでに切られた栴檀など、昨日まであったはずの木の葉一枚ない無惨なありさま。これから紅葉が始まろうとする木々も、木の葉が散る前にと考えられたのか、枝々が切り落とされ、何台ものトラックに山積みされていた。
近年、都市公園には芭蕉などほとんど見なくなった。青々と広がる大きな葉や雨粒にうたれる音、風騒ぐ葉ずれの音など私は好きなのだが、かつて公園管理者に尋ねてみたところ、「冬枯れるあんなもののどこがいいですか?」と、冷たくいなされてしまった。
2000.11.17(Fri)
彼の岸にかゆきかくゆき燭ともすはいづれの皇女の化生なるらむ 梶尾操
■歌集『香柏傳』中央公論事業出版
生身の女性でありながら、存在感からすればやや異次元に住んでいるような人に憧れる。俗世間のことなど何処かに忘れてきてしまったようなうわ言をのりとのように述べてみたり、託宣のようなことを耳もとで囁いてくれたりすると、瞳の奥までまじまじと視てしまったりする。
たかが蛍を見たぐらいで、先の高貴な女性のたましいの生まれかわりとまで視てしまうのは、本心そう信じているからに違いない。
そして、私は梶尾操こそ皇女(みこ)の生まれ変わりに違いないと思っている。
昼過ぎ、ぼんやり歩いていると、目先を白いものがふわふわと飛んでいた。右手で掬い取るように包み込み、そっと掌を開くと、綿虫であった。左右の後ろ足あたりに、白い綿状のものを付けている。この数日、急に冷え込みだし、街路樹のプラタナスの紅葉もいっそう鮮やかになってきた。綿虫は人指しゆびに進み、指の上を動きはするけれど飛び立とうとはしなかった。
そのまま、エレベータで4階まで上がり、開きそうな窓をみつけ、息を吹きかけ外へ逃がしてやった。小さないきものが私に与えてくれた貴重な時間である。
綿虫は雪螢とも呼ばれる。
2000.11.16(Thu)
みなさん、一足お先に、私の名前・・・・、名前て何でしょう?
名は体を表わす。心身一如であります。つまり、私が火星旅行をたのしみます。
■『発熱』辻原登/日本経済新聞
火星探査ロケットにCD−ROMが搭載され、名前だけが火星旅行できるとのこと。NASAにはそんな署名書込みHPもあるのだろうか?
きっとその次はDNAを積み込んだロケットが発射されるに決まっている。しかし、肉体は再生できてもたましいはどうだろう。DNAに名前を付けておけば、その名前のような人間に成長、いや複製できると好都合には違いないが、私はお断りする。
2000.11.15(Wed)
俳句の技巧を教わっただけではなくて、自然の美しさを自分自信の目で発見することを教わった。
■『科学者たちの自由な楽園』宮田親平/文藝春秋
寺田寅彦が漱石のことを先生と呼び、その漱石から教わった真理を述べたくだりである。
俳句はたかが17文字だから簡単そうで、なかなか一筋縄ではいけない。私も何年か俳句を作っている。そのため決められた時間内であっても10句以上作れるようになってしまった。しかし、それは技巧の俳句であって、自然の美しさや真理を発見した喜びとは全く異なるものである。自分の目でものを見、素直に感動できる気持ちをいつまでも失わずにいたいものである。それは傷つきやすさを失わないということでもあるが。
本など読まないで、外に出たほうがいいのであろうが、仕事が終わると外は真っ暗。テレビを見るか、本を読むか、酒を飲むかしかないのだろうか。少し疑問。昼遊んで、夜仕事をしてみてはどうだろう。フレックスタイムっていいかも。
2000.11.14(Tue)
ただひそかに思ふに、この俳句和歌の特色などといふことはこれを公式化してしまっては面白くないのであり、また弊害も伴ふものであることをも知るべきである。
■『短歌一家言』齋藤茂吉/齋藤書店
正岡子規がすでに明治33年に道破した、「俳句は客観的であり、和歌は主観的である」という考えを茂吉も首肯しながら、なおかつ警世を残してくれている。
この書は今年7月、松山の古書店「坊ちゃん書房」で入手したもの。ページを開くと黄ばんで古びた紙の臭いがぷんぷんとたってくる。しかし、どこを開いても面白い。
いい俳句を読むとなるほどと満足、心にその余韻が広がるし、いい短歌を読むと感動、背中がびりびり震えてくる。「頭でわかっているうちはまだまだ」と自分に言い聞かせても、心で震えるようにはまだならない。心も要らないのかもしれないが。
美味しい柿と甘味の少ない柿がある。見てくれは同じなのに、食べてみなくてはわからない。俳句も短歌も読んでみなくては味がわからない。しかし、時間があまりにもなさすぎる。私の読書スピードは家人の約1/3である。
2000.11.13(Mon)
飼っていたメダカ三匹の中で一番小さな"児太郎"が死んだ。手に入れてから約2ヶ月の命であった。死因は不明。
小鳥を飼うのも、犬、猫を飼うのも、馬を飼うのも、クジラは飼えないけれど、
人間の子供は飼うと言わないけれど、やはり死ぬと同じように哀しいだろうか・・・
悲しみの大きさは、生き物の大きさではなく、その連れ添う長さなのだろうか。それとも、人間の子供は、自分の分身として痛みが違うのだろうか。
メダカは飼っていてもなかなか懐かず、毎日餌を与えるたびに小さな物音をたてて覚えさせようとしているが、臆病で、すぐ水草の中に隠れてしまうのが常である。
夕食に魚の刺身を食べた。
2000.11.12(Sun)
朝食バイキングをしっかり食べる。そして、A君が言い出したホテルのケイマン・ミニゴルフに参加。球技は全くダメだから、初めてのゴルフ。ただただ、迷惑にならぬようハーフを付いて回るのみ。
1コースで早くもロストボール。これは一大事になったと参加したことを悔やんだが、3コースでパー。諦めて落ち着くと何とかなるものらしい。しかし、体力続かず、7コースの登り急斜面では汗が流れ始めた。おまけに、帽子も被らず天敵の紫外線を1時間近くも浴びたものだから、鼻の頭が赤くなった。もちろん、成績は散々。やはり、室内で練習できるPCゴルフゲームのようにはいかないもの。オーガスタは遠い遠い夢と言えよう。
ラジオから流れたエリザベス女王杯も全くの予想はずれ。やはりパドックで馬を見るのが一番。小豆島、寒霞渓の紅葉と展望、特殊な地形、岩盤、そして高低差による気温の違い、人さえいなければ楽しめる。やはり、名所は穴場ならず。
2000.11.11(Sat)
土日を利用しての小豆島一泊旅行。H君他がレンタカーを運転、分乗させてもらう。12時30分、高知出発。早速、ローソンで缶ビールを買い込み、運転者には気の毒だが酒盛が始まる。
高松からフェリーにて土庄港上陸。リゾートホテル・オリビアン泊。1室3名で広く快適。持参した本も雑誌も読まず、お決まりの宴会コース。
ビール、日本酒、冷用酒、吟醸酒、ウイスキーで真夜中まで続く。『綾菊』よりは高知の『志ら菊』がうまいと、U君共々贅沢を言ってしまった。予約のカラオケ延長時間も閉出され、冷えかけた大浴場でアルコールを抜いて就寝。食事は量より質を!
期待していた夕日、雲により見えず残念無念。
2000.11.10(Fri)
翠黛の時雨いよいよはなやかに 高野素十
翠黛とは緑色のまゆずみ。転じて、緑にかすんで見える山のことである。ここでは時雨の冷たさよりも、雲間からの陽光を受け一時耀やいてみえる雨脚と、その向こうのしっとりとした縹色のなだらかな山の稜線を感じていればよい。
素十俳句のよろしさは、言葉以上の何モノもない単純さであろうか。もちろん深読みしようとすれば、どうとでも連想力は働くが、それ以前に、眼前に現れる景物の鮮やかさに目を奪われ、一瞬、時が止まってしまうのである。
素十はいいなあー。やっぱりいいなーと思いつつ、どんよりと曇った空から落ちてくる今日の雨に、そろそろ時雨かしら、しかし、少し肌寒くなった程度で、まだまだ冬らしくならないなー、などと考えていた次第。
2000.11.09(Thu)
でもお前への愛の記念に、私はお前の葉で冠を作ってかぶろう
■『ギリシアの神々』曽野綾子・田名部昭/講談社
エロス(愛)のいたずらとはいえ、金の矢を射られたアポロン(太陽・芸術の神)は河の神の娘ダプネを恋い慕い、鉛の矢を受けた娘は恋を拒み逃げ出した。そして、終には父に救けを求め、その姿を月桂樹に変えてもらった後の出来事である。
一方的な愛の残酷さを語ろうとでもいうのだろうか。愛するダプネがもはや妻になれなくなったと知ると、まだ命ある木に変わった娘の葉を取って冠を作ろうなどと考えるとは。「愛の記念」の美名のもとに毟り取られた小枝や葉の痛みなど露ほども考えようとはしていない。翻訳の過程で誇張されたとしても、話としては娘への執着心を表すモノローグだったに違いない。それを永遠の愛の証と受け止めていいとは思えないのだが。
そんな物語を昔読んだことを忘れていて、先日もシチューに入れてぐつぐつ、ぐつぐつ煮てしまった。確かに、生きていくためには食べなければならない。愛の残酷物語そのものと言えようか。
2000.11.08(Wed)
常春の国 マリネラ
■『パタリロ!〔1〕』魔夜峰央/白泉社
今でも漫画が好きである。しかし、何度読んでも面白いものと、一度で十分と思うもの、そして、最初から読む気が起らないものに大別される。読む気になれないのは、ほとんどその描画タッチに起因するが、絵には満足しなくても話題で楽しめるものもあり、全く無視してしまっているわけではない。しかし、雑誌連載時から読んでいて、それでも購入して限られた書棚スペースに未だに残っているコミック本など、佐藤史生(これはコレクション)を除けば十人ほどであろうか。松本零士、萩尾望都、岡野玲子、等・・・
そんな中で、このマンネリとも言える書き出し、否、描き出しとも言える島と波のマリネラ王国のなんと安定した存在感。子供にとっては「むかしむかしあるところに」で始まる物語の普遍性、そんなものに新しいものを追いかける一方で何故か心ひかれてしまうのだから不思議なものである。
仕事がスムーズに運んでいる時は漫画など読んでいる暇もないのだが、行詰まると気分転換に何度でも同じものを読んで満足している。これも、マンネリ的安定感を求めようとする視覚的精神安定剤なのかもしれない。
2000.11.07 (Tue)
黒のなかにこっちが全部映ってるでしょ。まるで鏡のように・・・ 高橋節郎
■『高橋節郎/漆−−−−黒と金の物語』実業之日本社
俵万智との対談で「漆の仕事というのは、たえず鏡に向って、自分を見つめながら進めていくというようなところがある」と漆芸家は語る。
小人数のワインパーティ。7種のワインを味わったが、必ずしも高いワインが私の好みではなかった。木製樽による熟成で雑味が入るよりも、中にはステンレス樽のほうが葡萄の息遣いが感じられるようなものもあった。
さて、待っていても工芸作品のイメージが現われてくれない。そろそろイメージが形や色に変わってくれるようにイメージの眠りの底に呼び水を与えてやろう。
2000.11.06 (Mon)
少年のわれにくちづけなす父を幻に見つ 戦のさなか 水原紫苑
■『短歌研究』2000年11月号/短歌研究社
友人ならば男性でも女性でも性別を問わずキスできる私であるが、息子に接吻などもってのほか。もちろん子供がいないので、息子にも娘にもした経験はないが、命を懸けてなどと言われれば娘ならなんとか許そう。
歌人が女性であるからこそ、少年になった私にくちづけせよと迫れるのであろう。これもひとつの父恋の歌である。しかし、いまだ日本に起らぬ戦を夢見ているのだろうか、それとも、今は「戦のさなか」なのだろうか。
2000.11.05 (Sun)
コンクリートや木、鉄等でつくられた物質的な器、確固とした”かたち”を有しているもの、それが<建築>だとする考えが、崩壊しつつあるといってもいい。
飯島洋一
■『現代建築の50人』INAX叢書
パソコンの中に建物や街が出来上がりつつある。否、それはパソコンの中ではなく、ネットワークで接続された遠隔地のハードディスクの中に他ならない。ネットワークに接続できるあらゆる端末から街作りの共同作業に参加することができる。しかし、そのようなシミュレーションのことばかりではなく、これまで箱物を作り、それを建築と呼んできた概念こそが崩壊しつつあるのではなかろうか。
しかし、一方では、この不確かなバーチャルシティの映像に嫌悪の気持ちが少なからずあるのも否めない。それは、最先端技術がその使用者によって、まだこなされていないために、技術の新しさにのみ目が奪われているからに他ならない。カラープリントが一般的になりはじめ、誰もが強烈な赤や青の鮮やかな写真ばかり撮っていた頃を思い出す。少し遅れた技術ではあっても、それを十分に理解し操れる技術者や建築家に成長してもらいたいものだが、そんなことを言っていると、技術に置いてけぼりにされてしまいそうな切迫感から逃れられない自分が恥ずかしい。
2000.11.04 (Sat)
洞窟の中に野菊を置きにゆく 夏井いつき
■『藍生/十周年記念号』藍生俳句会
「洞窟の中へ」ではなく「洞窟の中に」と位置を限定することで洞窟の暗さや湿り、そして霊的なものが想起される。作者は一句の中に「に」を埋め込むことによって俳句を顕たせようとしているのかもしれない。「日盛や漂流物の中に櫛」や「うぐひすに見せてはならぬ鏡かな」などにもその指向性が感じられる。物や想いに執着するためには「に」が不可欠なのだろう。身体にまとわりつく重さが少し気に掛かる。
黒田杏子主宰による俳誌『藍生』は、同人制をとらず全員平等の会員であることを記念号の合同作品集により新ためて認識した。すべてが平等では問題もあろうが、今後の発展を見極めたい。
高知市郊外に出かけ、久礼野の日翳った薄原に秋の深まりを感じた。
2000.11.03 (Fri)
歩いて200mのところに大型電気店がオープンした。「コンピュータウン」と看板にある。なんと安易な名付け方だろう。一般家電ものが売れにくくパソコンに主力を置くとのことだが、もう少し夢のある名前は考えられなかったものだろうか。
建物が哭いている。私だけでも「オデュッセイア」とでも呼んでやろう。近くに大型書店ができるのを期待する。
■『花より本』塚本邦雄/創拓社
2000.11.02 (Thu)
桐一葉日当りながら落ちにけり 高浜虚子
やはりこの句が好きである。何度読んでも飽きないのは、落ちたことしか叙していないのに、読むたびに連想が異なるからだろう。桐の葉の大きさ、高さ、風に乗るさま、ひろがえるさま、その度に落ち方や光の加減が違うのである。
こんな句が一句でも詠めればとつくづく思う。
2000.11.01 (Wed)
道はまっすぐ歩くためにできていて、階段はのぼり降りするためにできている。
坂東眞砂子
■『ミラノの風とシニョリーナ』中公文庫
そんなことはあたりまえ。行先に早く着くためには真直ぐなほうがいいに決まっている。しかし、イタリアから帰国した著者の疑問を読むと、確かにゆったり石の階段に座って道行く人を見ることができる広さや、段差、段巾も欲しくなってしまった。効率と経費ばかり優先していては、見失って取り戻せないものがあるに違いない。
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