「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2002.03.25(Mon)
死ぬ人の歩いて行くや牡丹雪 藤田湘子
■俳句雑誌『鷹』2002年4月号/鷹俳句会
俳句では「我」を詠うのがもっとも強い。自分の為に作る俳句である。おもいをしっかり書き留めれば、後は読者が共感するか否かである。私詩であっても、頷けるものには納得し脱帽する。
「死ぬ人」とは、「死ぬ我」を含んだすべての人間である。我が前を歩く人も、後ろを歩く者も、すべてが死へ向って歩いている。日常、そんなことばかり気にかけていては何もできず、無常感におそわれるばかりであるが、詩人は敏感にそれを意識する機会が多くなる。いや、多いがゆえに詩人になる。
しかし、どんな人にも道はふた手に別れている。死へ向うのは同じであるが、牡丹雪を美しいと感じ喜ぶか、ただ雪と思うかである。
寒さが少しゆるみ、雪片が大きくなった牡丹雪が空から霏霏と降ってくる。
2002.03.24(Sun)
昼から高知鷹句会に出席。今日は思いの他少人数であったが、実力者揃いのため緊張感が増し、これも楽しい場となった。
句会終了後、酒を飲むにはやや早すぎたため、高知城へ有志で吟行。桜を楽しんだ後、いつもの居酒屋で5句出しの句会となった。やや肌寒い吟行であった。
降りて来よ桜満開なる夜は 郁摩
愛恋に遠し桜木満開に
花早し見ぬ世の桜いかほどに
2002.03.21(Thu)
羽田からモノレールに乗ると、満開の桜であった。高知の桜も早いが、今年は東京の桜も早々と咲いている。去年は3月に雪が降ったが、今年は一挙に暖かくなってしまった。気象変動が緩やかに、そして無気味に進行しているのである。
夕方、強風。風に押されて思うように進めない有りさま。東京湾を埋め立てた土地とはいえ、こんなに強い風が台風でもないのに吹くとは思わなかった。空の半分が曇り、新建築群を浮びあがらせ、ある種の美しさもあった。写真を撮っておけばよかったと後悔したが、風には勝てず退散した。
2002.03.20(Wed)
風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢
俊成女
■『新古今和歌集』日本古典文学全集/小学館
もとは千五百番歌合に出されたもの。相手方は顯昭であった。通うのは風ばかりでなく殿方であって欲しいとの思いも隠されていよう。夢とうつつを行き来する小道具は「袖」「花」「枕」だけであるが、この花は梅ならず桜と読みたい。
桜は植物学的にはバラ科サクラ属サクラ亜科に分類されている。系統的にはヤマザクラ系、ヒガンザクラ系、チョウジザクラ系など6系統。
梅に比べてかすかな花香成分もまだつまびらかには判明していないらしい。しかし、ベンツアルデヒド、クマリンなどが知られている。
そして、桜の葉の中に、クマリンと糖が結合したものが含まれており、これを塩水に浸しておくと分解酵素の働きで加水分解され、クマリンが遊離する。つまり、これが桜餅に、えも言われぬ風味や芳香を与えているらしい。
快晴。
2002.03.19(Tue)
世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん
西行法師
■『新古今和歌集』日本古典文学全集/小学館
我が身を何処におけばよいのかと迷うのである。世の無常、人の儚さを知ったとしてもなすすべもない。咲いた花は散るのである。
今年の桜は早い。もちろん散るのも早いことだろう。毎年変わらず咲く花ではあっても、ひとつとして同じ花はない。人とて同じである。それは誰もが感じることであろう。ではどうやってもう一歩踏み出し、踏み越えてゆけばよいのか。それは教えられて解るものではない。自分で見つけるしか方法はないのである。
雪ふれり繰りひろげゐる愛怨も身の高さにてほろびゆくべし 稲葉京子
と思い出されるが、雪と桜が替わろうとも、人の心から生まれる愛も怨みも、時が過ぎれば消え去るのみである。墓石の角がすり減り、墓碑名が読めなくなってもなお残る愛怨などあるはずも無いのだから。
消え去るまで、もう一度、わが身を愛してみよう。
2002.03.18(Mon)
私の中には、俳句がボケで、川柳がツッコミという感じがある。
ゆにえす
■俳句雑誌『船団』2002年3月1日号(第52号)/船団の会
おもしろい捉え方をする俳人もいるものと微笑してしまった。
坪内稔典率いる「船団」の座談会「特集●今日の俳人、その実力/この人の魅力は?」が収録されていたのだが、その中の言葉である。ある意味では今日的な捉え方かもしれない。漫才の役どころと俳句と川柳。なるほど、そんなものなのだろうか。
この座談会の参考資料として出された別表3「現代俳人採点表(ゆにえす作)」に、彼女の採点基準があったが、現代性や意外性、破調度、口語度に混じって毒とかボケ、洗練などの項目がある。
まじめな俳句ばかりではなく、それを突き抜けたボケ、つまり意図せず醸し出されるようなボケた俳句を作ってみたいものである。しかし、それが簡単にできるならばこんなに日々苦労することもないのである。滑稽とユーモアの違いさえまだ理解できないありさまなのだから。
7〜80歳になって、実力俳人としてボケた俳句を創れるようになりたいものだが、何も急いで歳をとる必要もない。今しばらくウロウロ、アレコレ迷ってみようかと思う。ただ、ものわかりのいいジイサンにだけは成るまい。
2002.03.16(Sat)
シャガール の夜 を
マグリット の鳥 が
翔び
嗣治の 素描 に
マン・レイ が
シャッターを 押す
山村日出夫
■『LE MAZCH (16) 』2002年3月24日号/書肆R・R
大阪高槻市にある古書店「書肆R・R」から贈られてくる古書案内には、毎号、山村日出夫の詩が記されている。これは<吐息>と題された詩の一節。
声に出して読むとき、分かち書きされたこのスペースは、どのように読めばいいのだろうと思いながらも、名詞と助詞の不思議な結びつきに息をのむことがある。
そうなのだ、詩はすらすら読めるものだけではなく、心に影を落しながら、記憶中枢に染込み、噎せ返るようにあるときその映像や言葉を思い出すものなのだ。
「マン・レイ」のようなシャッターを切り、時間を閉じ込めてみたいものである。
2002.03.15(Fri)
栞して山家集あり西行忌 高浜虚子
■句集『五百句』/改造社
西行の忌日は陰暦2月15日。今年なら新暦の3月28日にあたる。「山家集」は彼の歌集。新古今集に収録された歌は、選者の定家や勅撰を命じた後鳥羽院より彼の作品が一番多かったはずである。
虚子がどの歌のページに栞を挟んでおいたかを当てるのも面白いが、実際はその本からはみ出した栞の端に目を止め、そこから山家集へ、そして歴史の彼方の西行へと時間をタイムスリップするほうが楽しみである。
俳句は「西行忌」の兼題で句会で作られたものかもしれない。「昭和五年三月十三日。七宝会。発行所」とのメモが付いている。つまり、自宅で作られたか、その雰囲気を思い出しながら発行所での句会で即吟されたか・・・であろう。
めったに栞など使わないが、ピカソの絵の赤と青の鮮やかな一葉を入手した。そんなささいなことがらが、この俳句に目を止めさせることになった。何度読んでも発見のある句集である。見開きに4句と思い込んでいたが、五句や三句のときもある。その行間もゆるやかな音楽のようで退屈しない。
2002.03.12(Tue)
桃之夭夭 桃の夭夭たる
灼灼其華 灼灼たり其の華
之子于歸 之の子 于(ここ)に帰(とつ)ぐ
宜其室家 其の室家(しつか)に宜しからん
詩経〔周南〕
■『中国名詩集 美の歳月』/松浦友久/朝日文庫
中国の『詩経』の中でも有名で、この季節になると口ずさみたくなる漢詩「桃夭」を私の記憶の為にしるしておこう。漢詩の文字をパソコンで入力するのは、おっかなびっくりと言った心境なのだが、何とか漢字を見つけることができた。
「干(ほす)」ではなく、「于(ここ)」なんてあるのだろうかと心配だったが、部首引の漢字表から見つけることができ一安心した。
近所の家の塀から突き出した桃の花が、今を盛りと咲いている。枝先にぽつぽつといったしとやかさではなく、わーっとあたり構わずといったていである。しかし、その穏やかな明るさがこころに染みると、少し嬉しくなって、誰かにその花を見せ、同じ気分を味合わせたいと思ったり、ささやかな明るさが続くようにと念ったりしてしまうのである。
この詩とともに、アイドル歌手「山口百恵」なんてイメージが浮んでくるのだが、かつてある俳人とその話をした記憶がしまいこまれ、花を見るたびに思い出されてくるようである。脳の記憶BOXにはいったいどのように整理されているのだろうか。
白居易の「念金鑾子(きんらんしをおもう)」の中の一節に新たな発見もあった。
形質本非實 形質は本(も)と実に非ず
氣聚偶成身 気 聚(あつま)りて偶々身と成るのみ
白居易(772-846年)がこのような宇宙観・人生観を持っていたとは知らなかった。
2002.03.11(Mon)
「何? 旋律を図形にする? 知らない? どうやって?」
「法則はあるの。説明は面倒だけど・・・・・。で、そういう遊びをしているとね、美しい音楽はね、ちゃんと美しい図形になるのよ。駄目なものは汚い図形になるわ」
さだまさし
■『精霊流し』/さだまさし/幻冬舎
私の大好きな作曲家、武満徹の名前も出てくる。図形楽譜をもとに演奏するだけではなく、旋律を図形にすると、美しい音楽が美しい図形になるのはありえそうなこと。ただコンピュータを使わずにその図形を描くのは時間がかかるかもしれない。
音楽「精霊流し」や「秋桜(コスモス)」で有名なさだまさしが、自伝的小説の中で取り上げた雅彦とヴァイオリニスト涼子の会話である。自伝と小説の境は、きっと本人にしかわからない。
これは第六話の「らくだやの馬」の中に出てきた話なのだが、鳥取砂丘から鹿児島の牧場、そして栗東、昭和49年のハイセイコーまで出てきて、競走馬と自分達の運命がフラッシュバックするちょっといい話であった。好奇心をもって読み解いていくと世界は確かに広がっていく。
雲はあまりなかった。しかし夕焼けの美しさにほれぼれしてしまった。
もうすっかり春である。田植準備の代掻きが始まった。
2002.03.09(Sat)
太古の昔に名づけられた地名は自然発生的だ。
今尾恵介
■『地名の謎』/今尾恵介/新潮社
あらためて確認しておくが、人間が増え過ぎると他と区別するためにあらゆるものに「名付け」を行う。これはある意味では自然発生的とも解釈されるが、本来人間がなすことであり人為的なものであろう。言葉が生まれ、名前が生まれる。言葉と名前が同時に発生したかもしれない。
「明治維新になると、今度は廃藩置県で多くの県がめまぐるしくつくられては廃止され、行政区画も激変しながら一八八九(明治二十二)年を迎えるのであるが、このときに七万以上あった全国の市町村が一万六〇〇〇ほどに強引に整理統合され、数々の合成地名が雲霞の如く誕生した。」と言われる。
廃藩置県は知っていたが、この明治22年の市町村整理統合は初耳であった。強引であったかどうかは知らない。しかし、これだけ数を減らすためには強引に行う何かがあったはずである。今まさに、全国の市町村合併がすすめられようとしているが、これは優遇税制の適用といった手段で、いくら住民が反対しても赤字自治体には避けようのない道である。
また雲霞の如く新地名が増産されるのだろう。
やや風はあったが雲ひとつない快晴。JN結婚式。
2002.03.06(Wed)
快晴。美術館で昼食。デザートの後は濃茶を飲みたいほどであった。
夜は俳句五人会「銅の会」。鷹3月号、湘子先生の12句について輪読合評。また、基礎に立ち返るため、「新 実作俳句入門」の輪読も開始。後半1時間は、兼題4句による句会。いつもなら、後は飲み会になるところだが、体調が思わしくなくそのまま帰宅。
2002.03.04(Mon)
一瞬が永遠になるものが恋
永遠が一瞬になるものが愛
辻 仁成
■『目下の恋人』/辻 仁成/光文社
疲れきっているときには優しく読めるものをと考え、作者名と発行日だけを確かめて買った来た。書下ろし2編を含め、短編小説10編が収められていた。
題名を「めした」と呼ぶべきか、「もっか」と呼ぶべきか一瞬迷った・・・。こんなときは、「My Current Girlfriend」の英訳のほうがすっきりする。日本人なのに変な話である。
そして、扉をあけると、天に上の二行の言葉が記してあった。これだけでは何だかさっぱり解らない。「恋」と「愛」についての作者なりの定義なのだろうけれど、それがすんなり通用するなら小説を読む必要もなくなる。だから、こんなときはあまり考えず、こだわらず、先を急ぐ。何故か最近、時間に追われているのである。
俳句では「恋」だの「愛」だの抽象的なものはなるべく敬遠する。短い言葉のなかで説明すること自体が難しいので、より具体的なモノを並べることが一般的には大切にされる。もちろん、愛や恋を含んだ名句が無い訳でもないが、まず失敗するのがおちなので手を出さないに限る。この点、短歌はまだ少しだけ許容範囲が広いようにも思える。
「目下の恋人、ネネちゃん」
主人公ネネの心配は、いつも他人に紹介されるとき、ヒロムが「もっか」と付けることであった。最近の小説の主人公はカタカナ名前が多い。あまり実在感がないようにするためか、わざと軽い人間に仕立てあげられているように思えてならない。それだけ真面目が馬鹿にされ、暑苦しく思われている風潮のあらわれでもあるようだ。
「ヒロムなんかと別れてしまえ、ネネちゃん」
と励ましたくなるが、きっといらぬ御節介というものだろう。
高知競馬は廃止寸前の赤字経営。とりあえず、雇用対策として経営されているらしい。3月3日の第9レース「雛祭り特別」1400m。まさかの雛祭、思いもかけない牝馬アクアダンサー(西内忍)7歳に、単賞9,160円。こんなこともやっぱりあるのが競馬。買ってたらよかったのに、買えないよね、普通は。
また、3月18日は「黒船賞(GIII)」(農林水産大臣賞典)である。この名前が高知らしくて気に入っている。昨年は、ノボジャック(武豊)、ナショナルスパイ(的場文男)と駆け込み、地方ではなかなか見られない見応えのあるレースとなった。ただし、こんな時には高配当にはならない。
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