「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2002.02.28(Thu)
愛用のPowerBookG3のマウスを壊してしまった。
動きが悪くなったので掃除をしてやろうと裏蓋をあけ、ローラーに付いたゴミを取っていたのだが、うっかりプラスチックの小さなピン先を折ってしまった。こうなるとたった2mmほどの出っ張りでも無いと全く動かない。
早速、販売店に出かけ従業員に同じものが欲しいと告げたのだが、すでに旧式扱い。まして、色が黒で、アップルマークが入ったものをなどと言ったものだから、中古の段ボール箱の中まで探しても見つからない始末。参ってしまった。
偶然通りかかった社長を呼び止め、何とかならないかと頼んだところ、「私の使っていたものでもいいですか?」と驚くような回答。
これまた店に積み上げた段ボール箱から、彼の私物の箱を探し出し、その中をかき回した挙げく、鈍く輝く黒いマウスを発見。あまり使っていなかったらしく、ほとんどすり減りもなく、うん千円で分けてもらうことができた。
近頃、商品開発の速度が早すぎ、数年で旧式、いや一年もたたずそうなるのはなんとかならないものだろうか。もちろん、新しいものが高性能で便利になっているのはよく解るのだが、一体誰がそこまで使いこなしているだろう。
私はまだこの愛機で、CADもCGも、イラスト、写真編集までやっているのである。外観の明るいG4も欲しいが、もう少しOSとAPが進化したものでなければ、さほど変わらないと思っている。
2002.02.25(Mon)
北雲に鬼神あるべし初山河 藤田湘子
■俳句雑誌『鷹』2002年3月号/鷹俳句会
鷹には毎月、藤田湘子の俳句が12句掲載される。
藤田湘子を師と仰ぐ私たちにとっては、これが指針であり指標でもある。だから何とかこれを味わい、読み解こうと努力する。しかし、どこまでいっても不出来の弟子には、ただ何となく感じるだけで、一向に悟りの気配もない。
今月号においても、まず眼に飛び込んできたのは、
綿虫や人は旅してひとと逢う
であったが、あまりにも旨すぎてついていけない。「人は旅してひとと逢う」は確かに人生の真実、格言にもなりそうな言葉である。しかし、「綿虫や」は、二物衝撃が解らなければ話にならない。季語がこれでいいのか動くのかは、師湘子のみしか判断できない。つまり、藤田湘子はこれを目指せというのであるが、それが簡単に納得できるくらいなら今頃俳句になど飽きて、もっと他のことに命を懸けているだろう。頭で理解しても、まだ身体が震えないのだから、まだまだということのようである。
3月号に載るのは、およそ暮から1月初旬に作られた句。「初山河」の句を玄関や床の間に掛けておけば、この一年の災いが防げそうな気がした。古いと言われるかもしれないが、やはり何度読んでも飽きない句である。
2002.02.20(Wed)
who are you とはこすもすもつれきった言葉 冬野 虹
■文芸雑誌『むしめがね』No.13/むしめがね発行所
四ッ谷龍さんから、去る2月11日に冬野虹さんが虚血性心疾患により永眠されたとのご連絡をいただいた。その夜まで普通に生活されており、突然あの世に旅立たれたとのこと。御冥福を祈るばかりである。
私にとって、冬野虹さんはあこがれの人であった。初対面以前から、短歌や俳句雑誌でその名前を見かけ、作風からも希薄な空気のようにただよい、強くは自己主張されないのにいつも独自の輝きを放っておられた。
作品だけで満足、本人には会うまいと決心していた塚本邦雄氏に初めてお目にかかったのも、あるパーティー会場で、四ッ谷龍・冬野虹さんの紹介であった。神戸にお住まいの頃、仲間と彼らのアパートを訪ねると、洗面器とタオルを渡され、近くの銭湯に案内されたのも懐かしい思い出である。
掲載の俳句は、彼ら二人が発行していた『むしめがね』バックナンバーからの引用である。「こすもす」は宇宙や世界というより、ここでは創世以前の「かおす:chaos」渾沌の意味合いが強いような気がする。「もつれきった」人間関係やあらゆる秩序がからみあい、なんともならない虚しさ。名前を知らない私たちは、相手やモノの名前を知ることによってやっと安心感をいだくことができる。
強くは断定しない。しかし、感じとった真実を語ろうとする思いが冬野虹さんの作品にはあった。途切れそうな彼女のイラストの線をたどりながら、ヒトに見えたりハナに見えたり、冬野虹さんは地面を歩かないで、すこし浮かんでいるのではないか、天女の素質を隠し持って生きている人だと思い続けてきた。
離れていても何処かで繋がっているように思っていた人が突然いなくなったと知らされると、その思いの切れ端が宙を舞いたよりなくてしかたがない。これからは四ッ谷龍さんの作品をとおしてまた彼女に出会いたいと思う。
私が生きるかぎり、冬野虹さんの名前が消えることはないだろう。
”Who are you ? ”
● むしめがね へ
2002.02.17(Sun)
一、此の度、とも女と申す女、我等勝手に付き
離別致し候。然る上は向後何
方へ縁組候とも、我等方にて一切
差し構えこれ無く。件の如し。
政之助
■『寺子屋式 古文書手習い』/吉田 豊/柏書房
候文の紹介で示された「三くだり半」の離縁状である。これが標準書式であったそうで、夫の「政之助」から妻の「とも」に渡したものと紹介されている。
時代劇などでは時々お目にかかるが、文面まで覚えていなかったので参考までに書き留めておくことにした。しかし、夫から妻方への一方的な権利であったとしても、「向後何方へ縁組候共」と思いのほか妻側への配慮がみられたようである。
もちろん、こんな紙切れ一枚で、理由もなく離縁される女性の立場に立てば許されることではないが、それが許された社会に、今となっては興味以上のものが感じられてならない。
つまり、人間が決めた約束、取り決め、法律、憲法などの何と薄っぺらなことよと思うのである。150年もすれば、今の現実さえ半分以上まやかしのようなものだとしたら、花の咲くような真実とはいったい何なのだろう。
はたして、真実と呼べるようなものがあるのだろうか・・・とさえ思えてしまう。いやいや、これは解っていても言ってはいけない呪文なのかもしれない。
2002.02.16(Sat)
うつし世を視れど視をらぬ双眼は空と映れる空のごとしも
紀野 恵
■『水晶宮綺譚』/砂子屋書房
久しぶりに写真を撮りにでかけた。もちろん○○の写真である。
最近、デジタルカメラばかり使っていたため写真らしい写真を撮っていなかった。鈍るほどの腕でもないが、動くモチーフにはやはり追いつきにくくなっている。また、踏み込みが浅く、やや迫力に欠けるのもカンが鈍っているためだろう。
隣でビデオを回している人がいたが、後からあの中のワンカットを自在に抽出して使うならばシャッターチャンスでは負けてしまうことになる。それでは銀塩フィルムでデジタルに対抗しうるモノはいったい何が残るだろう。
解像度などといった数値ではなく、数値にできない何かをもう一度求める必要があるように思えてならない。そんなことは解り切っている。しかし、それが一番難しい。
午前中病院へ。晴天。
2002.02.14(Thu)
しかし、決してデザインは無力ではないということを、このグッドデザイン賞から受け止めていただくことができれば幸いだと考えます。
川崎和男
■『GOODDESIGN20012002』/日本産業デザイン振興会
「Gマーク」、グッドデザインマークの名はかなり知れ渡っているようだ。
各種のマークにあまり興味の無い人でも、JISマークとウールマークとGマークくらいは知っているのではなかろうか。しかし、毎日増え続けるマークだけを見て、その意味を理解するのは至難の技であるといえよう。
「グッドデザインアワード・イヤーブック」には、新たにGマークを付けても良いと認証されたモノが紹介さてている。すなわち、2001年度グッドデザイン賞に応募した2329点の中から1290点の商品や建築物、ビジネスモデルなどのデザインが選ばれている。また、63名の審査員の審査委員長を川崎和男が務めた。
彼は、単なるデザイナーではなく、デザインに夢を見ることのできる数少ない哲学者であると思っている。
旧正月早々、風邪で2日ほどダウンしてしまった。これは、旧正月くらいはゆっくり休養を取れとの思し召しと考え、予定を変更して休むことにした。
病院で抗生物質をもらってきたが簡単には直りそうもない。昨年も1月にダウンしていた。その時の診察券を求められたが、そんなものはもはや残っていない。やはりICカードに病歴を書き込んで、どこの病院でも使える診察券がわりにして欲しいものである。コンピュータ管理に更新したのなら、もっと手際よくできないものだろうか。病院のシステムもデザインして欲しいものである。
2002.02.12(Tue)
麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり
世阿弥
■『花伝書』/世阿弥 編/川瀬一馬 校注/講談社
太陰暦正月 頌春
本日届くよう年賀状を発送したが、はたして今日手許に届くのは何通だろう。土曜、日曜は郵便ポストの回収も少なく、わざわざ中央郵便局まで持参。新正月だと、暮の25日までに適当に入れておけば郵便局が気をきかして元日に配達してくれるのだが、旧正月ではわざわざ切手の下に朱書していても適当に届けられてしまうのが難点である。
毎年、新正月に変えようかと考えるが、やはりこだわりは残しておきたいので来年もきっとこのままだろう。
掲出文もここまでなら、一つの真実の断面でしかない。速さや体力において、若さに勝るものはないのだから。老とはそのようなものだろう。
「さりながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし」
この「花は残るべし」の断定は強い。そして、私たち誰もがこの花を心の中に手に入れなければならないと思っている。小さな花であったとしても。
● 頌春画像
2002.02.09(Sat)
競べ馬一騎遊びてはじまらず 高浜虚子
■『五百句』/高浜虚子/改造社
「競べ馬」は京都上賀茂神社で夏に行われる神事である。従って夏の季語、夏の俳句とされる。
しかし、この句を読むと、現代の競馬で最後まで発走機に入りたがらぬ馬の姿が眼に浮ぶ。寒風の吹きすさぶ競馬場などでは係員や騎手が難儀している様子がわかると同時に、馬の興奮度合も知れようというものである。
「競べ馬」ならば二頭。それも最初は左方が勝ちと決まっている。そこが神事たる所以である。衣冠、袴姿の腰には菖蒲(尚武)を挿すことになっている。
もちろん顔にはうっすらと死化粧を忘れてはならない。
遊びにもいろいろある。競馬や競艇もあれば、女遊び男遊び、言葉遊びなどなど。もちろんインターネットも遊びの一つ。工芸や美術さえも私にとっては遊びである。ただどれもが単なる暇つぶしではなく、命を賭けるに相応しいものであればよいと思っている。限られた時間なのだから。Dと遊ぶ。
2002.02.06(Wed)
空といふ心は、物毎(ものごと)のなき所、しれざる事を空と見たつる也。
新免武蔵
■『五輪書』/鎌田茂雄/講談社
新免武蔵とは、もちろん宮本武蔵のことである。美作の国、宮本村で新免無二斎の子として生まれ、五輪書では各巻の終わりに新免武蔵と記している。
ただし、地の巻の中では、自ずから「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十」と著わしている。
有名な五輪書だが、兵法書でもあり、よほど興味がなければ読む機会もなく、そのままに終るところであった。太刀や馬には興味が湧くが、戦や剣術にはさほど関心がなかったためである。
武蔵は兵法の道を五つに分け、その利点をそれぞれ「地・水・火・風・空」の五巻として書顕わしている。今の私にとって面白いのは、地と空の巻である。
地の巻では、「太刀の徳よりして世を納め、身を納むる事なれば、太刀は兵法のおこる所也」が興味深い。しかし、やはり人生訓的で、まだまだあまり近寄りたくない巻である。
上掲の言葉があらわれるのは空の巻であるが、一巻とわざわざ分ける必要もないほど短文である。しかし、兵法書にこの巻が加わることにより、武蔵の求めた道が何であったのかがわかるような気がする。
「ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也」と自解しているが、後年、武蔵の太刀先に空が広がっていたような気がしてならない。
2002.02.04(Mon)
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に 高浜虚子
■『高浜虚子集』現代俳句の世界/深川正一郎 選/朝日新聞社
立春。久しぶりにWebサイトの更新を行った。
文字で見るより、音で聞いて愉しむ俳句がある。いや本来は音で聞くだけでだけでいいのかもしれない。私が所属している鷹俳句会では、披講の時は、印刷物に触れないで、読み上げられる俳句と選者の名前を聞くように決められている。
この句など印刷された「ゆらぎ見ゆ」を読んでもピンとこないが、音で聞くと「揺らぎ見ゆ」なのだと理解される。虚子がしたためた短冊でも持っていればまた別だろうが、音だけで薮椿の大木に風が吹き付け、真っ赤な椿の花が揺れる様が浮かんでくる。
虚子の俳句のうまさは、百の椿が二百にも、三百にも、五百にも見えると同時に、ズームレンズのように一つの花に近寄り、そしてまた全体へと広がっていく循環が自然になされることだろう。
椿のことしか描いていない一物俳句である。俳句では二物の取り合わせも興味深いが、やはり優れた一物俳句にまさるものはない。
昭和26年作。『七百五十句』所収
2002.02.03(Sun)
本来、短刀は自分の身を守るために、いつも身近に備える武器として生まれたものである。
井出正信
■『江戸の短刀拵』/里文出版
歴史小説が招いたわけでもなかろうが、ある会社社長がこの本と『江戸の刀剣拵え』を持って現れ、制作中の短刀の金工意匠を任されることになった。普段なら断っているところだが、「刀剣」に興味が湧いていたところなので引き受けることにした。
ただし、意匠は古く、復古調のものとのことなので、依頼者の了承を得て、あまり私の個性は出さないよう割り切ることにした。作品と呼べない仕事もある意味では勉強になるかもしれない。
今にして思えば、大学時代に始めて工芸に関するレポートで私が書いたのは「日本刀」に関するものであった。
ちなみに、通常、一尺までの刀を短剣、一尺から二尺までのものを脇差、二尺以上のものを刀と呼んでいる。斬馬刀などと呼ばれる大太刀もあるが、合戦の方法が変わり、戦乱のない時代においては奉納用になっていった。
また、幕末には短刀を差すのがオシャレだったようで、有名な坂本龍馬立像写真にも確かに短刀が写っている。いつもなら「龍馬の懐にいれた右手はピストルを隠し持ち、草鞋ではなく革靴を履いている」と違ったところに眼がいくのだが、左腰には短刀をさりげなく差している。
井出正信の言葉どおり、短刀は自分の身を守るためのものとされたが、護身刀がそれ以上の力を持つのはいつの時代でも変わらないものだろう。
節分。午後から少し雲が切れ、日がさしてきた。Hの病気見舞&Dと遊ぶ。
2002.02.01(Fri)
「彼岸が見えれば剣も見える。剣が見えれば人も見える・・・・・」
山岡荘八
■『柳生石舟斎』/講談社
歴史小説はめったに読まないのだが、仕事の息抜きに、と思って手に取ってみると、著者の思いがあちらこちらに現れていて面白い。
つまり、作者はタイムマシンでその現場にいて現実を見てきたわけではなく、歴史史料を元にありうべき虚実を都合よく並べ、ほとんどを空想で補っていくわけだが、現代批判を加えたり、理想を述べたり、これまで見落としていたような事実らしきものまで提示してくれる。
神陰流の始祖、上泉伊勢守秀綱が柳生但馬守宗厳の工夫した「無刀取り」を見て、なお高き心、その兵法を活用できる宇宙まで見せようとした言葉である。
映画や漫画で知ってはいても、ゆっくりと味わう時間もないまま見過ごしていたことがら、「剣」とは何かを感じさせてくれる言葉であった。
後に宗厳(むねよし)は、石舟斎と号しているが、著者の山岡荘八はこれを読みといて、「世渡りの拙劣さをかこつものが、どうしてみずから石の舟などと号すはずがあろう。誰が浮かばせようとしても浮かばぬ舟・・・そうした自負が、そこにはある」と語っている。
1527年生、1606年(慶長11年)柳生にて病没。享年80歳。この時代の人間としては驚くほど長命であった。
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