「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
 
 
 
2001.04.30(Mon) 
広義のデジタル化は、電子工学の域をこえ、すべての生命体に関わる基礎的情報概念にほかならない。生物は多種多様な情報をデジタル化しながら生存してきた。 
                            西垣 通 
 
■『インターネットで日本語はどうなるか』/岩波書店 
 
西垣通は千変万化する物理世界の現象から、餌や敵を見分ける認知能力そのものさえも、ある意味ではデジタル化であると語っている。 
 
言葉や日本語についてのメッセージよりも、私にとってはこの基本概念が考えるヒントを与えてくれるものであった。デジタル化という言葉をもう一度とらえなおしてみようと思う。 
 
例えば、「さらに例をあげれば、DNA二重螺旋のゲノム(遺伝子の総体)とはデジタル信号そのものである」という考えは、私自信がデジタルであると言っているようなものである。つまり、成長による獲得形質をも、もし何らかの方法でデジタル化できるなら、私のコピーや保存が可能ということに他ならない。コピーを嫌う私がコピーされるとは耐えられない苦痛ではあるが。 
 
 
 
 
2001.04.29(Sun) 
葵牡丹文唐草蒔絵香割道具 
 
■『香千載』/監修 畑 正高/光村推古書院 
 
香道の道具というより、そのための裏方の道具である。しかし、本書をめくり写真を見て驚いたのは、正倉院御物の有名な沈香「蘭奢待」もさることながら、香割台の八角柱の上面の木目の光沢と、それを際立たせるように側面にほどこされた蒔絵であった。 
 
葵と牡丹文様であり、江戸時代の将軍家に繋がる持ち物として作られたのであろうが、香割台にまでその意匠を付けさせた感覚を何と言って表現すればよいのであろう。まさに、「ウーム・・・」の一品である。しかし、確かに使われた鑿痕があったのが嬉しかった。 
 
連休を利用して愛媛の実家へ帰省。小雨の高速・高知道はまだ込んではいなかった。 
 
 
 
 
2001.04.28(Sat) 
私たちは椅子を引きよせ、ふたたびダイキリを注文し、うっとり聴き惚れていた。 
                           沢野ひとし 
 
■『紫陽花の頃』 
 
友人と二人で聴いたのはドヴォルザークの曲。場所はキューバの首都ハバナ。 
 
私は抒情的すぎるドヴォルザークは苦手であるが、辛口のダイキリなら許せると思いながら読み進んだ。タンゴやボレロではなく、モーツァルトやブラームスが静かに流れる。是非とも真夜中の小ホテルの内庭で、ヴァイオリンやオーボエの音を楽しみたいものである。「ハバナで酒を!」と思わせてくれた文章であった。 
 
曇り空。自転車で街中を走った。普段とは違った筋肉が緊張して軽い汗をかいたが風が気持ちいい。しかし、自転車道の凸凹や駐輪車の多さには辟易させられた。 
 
 
 
 
2001.04.27(Fri) 
それも醜悪な形や色をしているならともかく、純白の目が醒めるほど美しい粉末である。 
                            渡辺淳一 
 
■『風のように・贅を尽くす』/講談社 
 
「美しい粉末」とは、青酸カリのこと。著者は札幌医大卒、整形外科医であったから若かりし頃その薬物を見ていたのかと思っていたが、小説「失楽園」を書くにあたって、ある大学の歯科研究室で見せてもらったそうである。 
 
私も毒劇物の管理が今ほど厳しくなる以前、10年近く手許に一瓶保管していたことがある。しかし、この文章にあるほど美しい粉末とも思えず、やはり作家の感性によってかなり誇張されたものだろう。「やや苦い」とあるが、私も味見はしていない。 
 
 
 
 
2001.04.26(Thu) 
彼らは「事実だとされていること」を丸暗記する。だが、発見の喜び、すなわち、事実の背後にあってそれに命を与えているものは、そこから抜け落ちているのだ。 
                        カール・セーガン 
 
■『人はなぜエセ科学に騙されるのか(下巻)』/翻訳 青木薫/新潮文庫 
 
天文学者 Carl Sagan の名で思い出すのは、やはり「ファースト・コンタクト」だろうか。人それぞれの記憶が違うのは当然なのだが「コスモス」よりもなぜか宇宙からの音として記憶されているから不思議である。もちろん、ジョディ・フォスターが好みであることもかなり影響している。 
 
「彼ら」とは、ここでは高校三年生を指すのだが、それ以後の年令の大人すべてを対象にしていると考えてもよい。年ごとに発見や感動が衰えていくのは、現実のすべてを事実としか受け入れなくなった片寄った理性に大きな問題がある。感性を失ってしまわないうちに、もう一度「なぜ?」と問いかけてみたいことばかりである。 
 
「科学の常識」もまた新しい発見で変わってしまうことを思えば、「不易流行」を唱えた古人の智恵を広い意味でとらえてみたいと思う。俳句や短歌を作るのはその力を見つめ直す機会でもあろう。 
 
 
 
 
2001.04.25(Wen) 
アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。 
                      レイチェル・カーソン 
 
■『沈黙の春』/翻訳 青樹簗一/新潮文庫 
 
以前から興味はあったのだが、読む機会のなかった本を手に入れた。内容だけで充分なので文庫本でよしとした。原著は1962年「Silent Spring」として出版されたとのことである。 
 
内容が重い本なので、どのように書き出されるのかと、サスペンスを読むように扉を開ければ、「アルベルト・シュヴァイツァーに捧ぐ」と献詞があり、彼の言葉があり、そして、キーツの詩の一節、E・B・ホワイトの言葉、まえがきと続き、本文の初めに上掲の言葉が現れる。 
 
自然環境保護に少なからず関心のある人ならRachel Carson の名前や書名は知っているだろうが、もうすぐ彼女が雑誌に執筆したエッセイを元に、長篇記録映画「センス・オブ・ワンダー」が完成する。是非とも見たい映画のひとつである。 
 
夜は俳句の「銅の会」。Y女史欠席。しかし、新人2名が参加したため面白くなっている。やはり既成観念にとらわれないのがいい。その後、カクテルバーへ、そしてラーメンと餃子。 
 
 
 
 
2001.04.24(Tue) 
春曙我となるまでわれ想ふ   藤田湘子 
 
■俳誌『鷹』2001年5月号より/鷹俳句会 
 
5月号には秀作が並んでいる。綜合誌「俳句」5月号50句から抄出された12句が並んでいるのだから当然だが、はたしてそのために何句捨てられたことだろう。 
 
「春曙」と言えば清少納言である。しかし、あやふやな春の時間の中で、「われ」から「我」へと昇華していく時間が想われ、瞬間芸術とも言える俳句に時間を盛り込もうとする意欲を恐しいとも思った。 
 
  虚子忌まで花の十日や愛しきやし 
  履歴から恋は脱落目借どき 
  春雷のあと空箱を一つ潰す 
 
また、こうして並べてみると藤田湘子の句の自在さには驚かされてしまう。 
 
湘子の一弟子として、私がこの文章に費やす時間を俳句創作に向ければそれなりの成果が期待できるのかもしれないが、「わたしとは何ものなのか」今しばらく考えてみるつもりである。 
 
 
 
 
2001.04.23(Mon) 
メディアが絶賛するような政権ができても、必ず悪口を書く。それがわたしのような「三流作家」の責務だし、表現者の根性というものだと思っています。 
                            辺見 傭 
 
■『京都新聞』4月23日より/京都新聞社 
 
「表現者の根性」という言葉をはじめて聞いたような気がする。しかし、彼なら命懸けで戦うに違いないと信頼しているし、他人事的だが、そうあって欲しいと望む。
  
辺見傭といえば私の中では講談社ノンフィクション賞の『もの食う人びと』が浮かんでくる。それだけ印象鮮明な作品であった。その彼が三流作家ならば、果たして誰が一流と名乗れるだろう。 
 
身体をはり取材し、誰に媚びることなく文章を書く作家を尊敬したいと思う。 
 
 
 
 
2001.04.22(Sun) 
問題を解くことに没頭するあまり、人々は自ら問いかけることを忘れがちである。    
                            森 博嗣 
 
■『臨機応答・変問自在』/集英社 
 
最近になって気が着いたのだが、書店に森博嗣の著書がやたらと目につく場所に置かれている。売れているから置かれるのだろうが、いつも手に取って読み飛ばし、まず立ち読みで終わってしまっていた。 
 
これ以上、本を置く場所もなく、購入費用も馬鹿にならないので、再読したいと思わない本は極力購入しないと考えていたためである。つまり、昨年10月に日誌を始めなければ、きっとこの本を購入することもなかったであろう。しかし、掲出の言葉には、680円+消費税くらいの価値があるのではなかろうか。 
 
忘れないようにするために、この一冊を買い、こうしてPCに入力し、いつでも読みだせるようにした。「何故この本を買ったのか?」「何故を忘れないために」 
 
もうひとつ、他人を傷つけない質問ができるようになりたいものである。 
 
・Mori's Floating Factory 
http://www.degas.nuac.nagoya-u.ac.jp/people/mori/index2.html 
 
 
 
 
2001.04.21(Sat) 
雲に乗る方法蝌蚪に足が生え   矢口 晃 
 
■『俳句研究』2001年5月号より/富士見書房 
 
三蔵の芝居を見た後でもあり、孫悟空の乗るキントンウンのことを思い出してしまった。確かに蝌蚪の形が雲に見えなくもないし、無数に群れる様子も、何か孫悟空を思わせ、生きる命の存在とかかわるようだ。 
 
電源コードが故障したらしい、充電の電力供給が無くなったので、つづきはまた。 ・・・・PowerBookの電力供給基板修理(数日経過)・・・・。電源コードを繋いでもPCに電力供給ができなくなり、バッテリが減る一方で、あせってしまった。電力がなくなると、PCはクズ箱に変わることを実感した。 
 
「雲に乗る方法」と言う句またがりの言葉の新鮮さ、つまり、俳句では使いづらい「方法」を巧みに用いて、川の中を覗き込む作者が見えてくる。作者は数十分蝌蚪を見ていたのかも知れないし、水面に写った春の雲の流れを追っていたのかも知れない。足を生やし、早く地面に立ちたい、独立したいと思っていたのかも知れない。夢想の広がる句である。作者は昭和55年生まれ。 
 
 
 
 
2001.04.20(Fri) 
人はいつか鳥に変わる 
身体を離れて 
               松本 隆 
 
■『Angel's Eye』歌詞カードより/TOSHIBA-EMI LIMITED 
 
チェリストのカザルスの編曲・演奏に聞き惚れ、何度レコードやCDで聞いたことだろう。「鳥の歌」はスペインのカタロニア民謡として親しまれている。 
 
松本隆の詩は、元の民謡のイエス生誕を伝える場面をではなく、生きる人間の救罪とやすらかな信仰心を感じさせる。詩は次のように続く。 
 
眼に見えない翼広げ 
星空を飛ぶよ 
生きる痛みから解き放たれ 
魂が舞うよ 
 
友人が劇団ファントマの高知講演を手伝っていたので「三蔵」を観劇。今年はなぜか「道」と繋がっている。芝居の感想を俳句で、とのことだったが、俳句ならぬ狂句のようなものしか書けなかった。開演前の紙芝居も笑えた。 
 
 
 
 
2001.04.19(Thu) 
稽古一回本番一回は、いわば名手が俳句を詠むのにも似て、その人の全人生の重さを、一瞬に、高度な洗練とともに、あらわにしていくような仕事なのだ。 
                            青井陽治 
 
■『日本経済新聞』4月19日、40面より/日本経済新聞社 
 
舞台には椅子が二脚。そして、たった二人の男女の俳優による手紙の断片の朗読。朗読劇「ラブ・レターズ」は、こうして、1990年初演以来、100カップルにより250回の公演を重ねたと言う。 
 
「稽古一回本番一回」というのは、俳優にとっては恐ろしい状況であろう。そして、その状況を「名手が俳句を詠むのにも似て」と表現する演出家・青井陽治は俳句の真髄を知っている人のように思えてならない。 
 
ややもすると、「俳句をひねる」と簡易に誰にでも俳句ができそうに思えるが、やはり「名手」でなければ掴み切れない世界がそこにはある。だからこそ面白い。 
 
 
 
 
2001.04.18(Wed) 
たしかに、そのように一本の木や、古い茶碗、雨に濡れた廃材などが、不思議に懐かしく呼びかけて来る時があるものだ。 
                            橋本 薫 
 
■WEB版句集『夏の庭』あとがきより 
 
作者は加賀に窯を構える焼物師。私のWebサイトの俳句を時々読んで下さっていたと掲示板の書込にあったので、4月10日開設のサイトを見せていただき、そこからWEB版句集を手に入れた。(Mac版をダウンロード) 
 
http://www2.ocn.ne.jp/~usaijiki/ 
 
Webサイト上では句集が読めなかったため少し戸惑ったのだが、それは作者の美意識と俳句形式への深い思いによるものであろう。Quick Time Player をさりげなく使った句集は、水色と山吹色を効果的に用いた瀟洒なもので、春夏秋冬の句が見開き4句仕立て、しっかりと縦書きで表示される。 
 
  靴紐の十字組む指晩夏光 
 
の句などは、縦書きでなければその良さの半分が失われてしまうようだと見愡れてしまった。今後、WEB版句集がきっと増えていくだろうが、その先駆けとも言えるものであった。なお、掲出の言葉は、ケルト人の神話、プルーストの「失われた時を求めて」を経て、橋本薫が日常の中で感じているものたちに潜む魂の声である。 
 
 
 
 
2001.04.17(Tue) 
現在というはかない時間をなげすてよ。存在はあらゆるところに同時にある。 
                       ヤニス・クセナキス 
 
■『音楽と建築』/訳 高橋悠治/全音楽譜出版社 
 
画家なら「ピカソ、ダリ、デュシャン」、音楽家なら「メシアン、タケミツ、クセナキス」と並べて答えていた。彼らが次々と鬼籍に入ってもこの思いはまだ変わらない。彼らを凌駕する才能に出会えない寂しさもその一方にはある。 
 
クセナキスはルーマニア生まれのギリシャ人であるが、時には禅に傾倒するような思想が感じられる。ヨーロッパの知識人が東洋にあこがれ、日本人が西洋にあこがれるのは、見なれぬものに驚きたい心からであろう。 
 
スーパーの出口近くに、芍薬2本と青麦がラッピングされ置かれていた。それだけで芍薬と青麦の美しさが失われてしまい残念でならなかった。 
 
 
 
 
2001.04.16(Mon) 
踏み出す夢の内外きさらぎの花の西行と刺しちがへむ 
                        塚本邦雄 
 
■第十三歌集『歌人』/花曜社 
 
すでに旧暦でも如月を過ぎ、弥生23日。何を今さらと思いつつも、「花の西行」に眼が止まった。いや、本心は「踏み出(いだ)す夢の内外(うちそと)」かもしれない。迷いが大きい時、意識とは少しずれたものをことさらに選んでしまうことがある。それが逃げの定法なのだが、逃げられない時はさてどうするべきか。 
 
仕事が重なって汗が流れる。自分の範疇を越えたものまで流れこんでくる。しかし、枠を決めたがるのは世間であり社会、できれば、枠など壊してしまえとばかりに、そんな自分を見つめる眼差しもどこかにある。 
 
久しぶりに自宅で夕食、それとも夜食と呼ぶべきか。 
 
 
   
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