「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2001.12.15(Sat)
遠天を流らふ雲にたまきはる命は無しと云へばかなしき 斎藤茂吉
■『赤光』/斎藤茂吉作/岩波文庫
この歌は、大正二年「死にたまふ母 其の四」の章の中にある。普段手に取りやすいリビングの本棚に一冊置いてあるのだが、別室の本棚にも同じものがあるのを発見した。文庫本だからそれほど邪魔にはならないが、同じ本を時々違う部屋へ持って来て読んでいるものとばかり思っていたので、一瞬驚いてしまった。
やはり『赤光』一連のなかでは、「死にたまふ母」の章がもっとも鮮明に映像を結びやすい。しかも、繙くたびにこころ動かされる歌が顕ち上がってくる。今まであまり気にも止めなかったような言葉が、ずしりと重さをもってせまってくる。
「命は無しと」、流れる雲なのだからあたりまえのことなのだが、今、今日、ここでこそ、「かなしき」ととらえられるのである。毎日同じものを見ても、自分の気持のありよう次第で変わってしまう。こころとは厄介でまた楽しいものである。
床に落ちている赤いものが気になった。何だろうと拾い上げてみると、南天の実であった。先日買って来て花瓶に挿していた紅白の南天のひと粒がこぼれたものであった。挿した南天は見えていても気にもとめなかったのに不思議なものである。
二日続きの忘年会。どこの飲み屋も人が多そうなので退散。
2001.12.14(Fri)
わたしの身体から流れ出す言葉の川にいったん足もとをさらわれ、やがてあたらしい衣を纏って、知らないはずの時代に生まれ変わった人々の群像が、そこには視える。
辰巳泰子
■平成14年版『短歌年鑑』/編集 山口十八良/角川書店
「あたらしい衣を纏って」生まれ変わったかどうかは疑問である。しかし、彼女の朗読に、足もとをさらわれた人はいたのである。
辰巳泰子は、ある俳句結社のパーティー会場で、歌集『仙川心中』の一連をスタンドマイク一本で朗読した。そして、約二十首を読みあげながら、会場からすすり泣きが洩れるのを聞いたという。
歌集を目で読み涙するのではなく、著者自らが朗読し、その声に演劇の一場面のように共感して、言葉が新しい「場」を創った驚きを伝えていた。
安易に涙するものは、簡単に忘れ去る。それも真実ではあるが、確かにそこに朗読者の予期せぬ「場」が生まれ、歌人の体験が聴衆の日常の足もとをさらったことは事実であり、共感者によって新たな流れを生むかもしれない。
「表現行為」を作歌だけに止まらせないようにしようとする著者の思いが伝わってくる文章であった。メディア論もまた一つの考えとして記憶に留めておこう。
死線にてはかしこき馬を使ふべし 世間にありては立派なる馬を 辰巳泰子
2001.12.13(Thu)
あの均整のとれた華奢な体はおまえの思うままになったが、この肉づきのいい頑丈な体はおまえを強く締めつけている。
高 行健
■『ある男の聖書』/高行健(ガオ・シンヂエン)/訳 飯塚 容/集英社
久しぶりに読みごたえのある小説を読んだ。
日経新聞の藤井省三の書評の言葉が素晴らしく(参考:2001.11.18)、是非読みたいものと取り寄せたのだが、500ページの大冊に少し戸惑い、読める機会を待って
いた。
高行健の自伝的小説といわれるだけあって、現代と過去が複雑にフラッシュバックする。しかし、彼の過酷な中国時代の話ばかりを延々と聞かせられるならば、きっと途中で本を閉じていたかもしれない。生の根源に繋がる性欲も含め、生々しく赤裸々に、また少しは作家的脚色も加えながら語られると、その物語のクレヴァスに落ちてみようという気持ちになった。
思想(想念)と肉体が波打ち悶え、あまり幸せとも思えない男の生きざまがあった。この小説を発表した99年の翌年、つまり昨年、彼は中国人(出生中国)として初めてノーベル文学賞を受賞している。しかし、この本はその選定委員会においてもまだ対象とはならなかったであろう。
1940年生。1966年文化大革命、1977年訪仏、1981年北京人民芸術劇院所属、1987年出国。1989年6月4日天安門事件、1997年フランス国籍取得。
1990年、『逃亡』執筆、政治亡命、その後中国では全作品が発禁とあった。祖国、中国の言葉で書かれた彼の作品は現代中国を越え、全世界で翻訳されて読まれている不条理に、恐怖以外のなにものをみることができるだろう。国や法律は言葉を縛ることなど本来不可能なのだから。
「おまえは女に対して、欲望だけではなく、大きな感謝の気持ちを抱いていた。」
救われるような言葉である。
2001.12.12(Wed)
僕は持参したソフトの中から、高島さんと、この秋に亡くなった沢山の人々の冥福を祈って「デュリュフレのレクイエム」を一番最初にかけた。
山本耕司
■FMfan 別冊『オーディオ・ベーシック』Vol.21/共同通信社
記載によれば、1993年、英米文学研究者、登山家、オーディオ評論家などの肩書を持っていた高島誠が亡くなった。
著者は、かつて高島のリスニングルームで生まれて初めてオーディオ評論家と呼ばれる人の音を体験し、自分の音との大きな違いを知らされたという。そして、彼が残したオーディオ・システムをもう一度聴きたいと思い、夫人に頼んで、そのままになっている部屋で今年の8月に聞かせてもらった。
「一体どうしたものか。寝ている恐竜を刺激したら、寝ぼけて叫び声をあげたような音だった。」と回想している。
どんなにいい部屋を用意し、溜息のでるようなオーディオシステムを組んでも、調整する主がいなくなっては、無惨な音、いや声しか発しないのである。
彼は友人、小林悟朗に協力を依頼して、二日がかりで調整を行った。そして、もちろん見事に蘇った。
「さすがに6WAY、ものすごいワイドレンジだ。ビシッとフォーカスが合い、反応が速く、透明で、リアルな音だ。音楽情報だけでなく、演奏者の気配など、あらゆるものが再生されている事に驚いた。こんなに豊かな低音をきいたのは初めてで、とても良い経験だった。」
そうだろうとも、私も一度、そんな音を聴いてみたいと喉から手がでるような思いでこの文章を一気に読んでしまった。
「それから1時間以上色々なソフトをきき、最後は武満徹の『ノーヴェンバー・ステップス』で締めくくった。」
実に嬉しい選択ではないか。選曲名を聞いただけで、どんな音がするのか何となくわかるようで、お腹の中から温まるような思いであった。
2001.12.11(Tue)
年末に向け、国内は不況の、世界は不穏な空気に包まれておりますが、憎しみや怒りを超え、文化も場所も時代をも超えて人びとを感動させ勇気付けることのできる音楽、そして読者のみなさまと私たち編集スタッフを結びつけてきた音楽に感謝し、休刊の言葉とさせていただきます。
丸山幸子
■音楽を楽しむための情報雑誌『FMfan』2001年12月10日号/共同通信社
工芸制作の単純作業を続けているとき、聴くとは無しに耳から入ってくる音楽や言葉があると気が紛れることがある。神経を集中させなければならないときは邪魔なのだが、そんな時間ばかり続くこともないので、普段からラジオのFMを流していることが多かった。
レコードやCDが高くて買えなかった時代、レコードにさえなりにくい現代音楽を楽しみにした時代、ぼんやりと何も考えずに過ごしてきた時代と様々ではあるが、確かにそこに何らかの音楽があったように思う。
音楽のプロではないので、あまり詳しく知る必要もないのだが、何故か流れた音楽が後から気になって、さっきの音楽は誰の何という曲なのだろうと思ったとき役にたつ雑誌が「FMfan」であった。この10年あまり、何となく惰性で買い続け、そんなに熱心な読者でもなかったが、やはりその休刊(終刊なのでしょう)の辞を読むと一抹の淋しさを感ぜずにはいられなかった。
1966年6月創刊以来、35年の歴史に幕を下ろすことになった。さて、インターネットのWebサイトの中からFM放送プログラムを探してみることにしよう。
2001.12.10(Mon)
私の意図は、ここではわれわれと生存の時代を同じうする作家たちによって、そのような俳句という古風な芸術方法の把握の上に、現代の詩人の決意がいかに現われているかを見るにあった。
山本健吉
■『現代俳句』/角川書店
俳句を作りはじめたころ、この文庫本が随分役にたったように思う。昭和前半の有名俳人や代表句が紹介され、その解説が適切であり、塚本邦雄の「百句燦々」と合わせて読めば、他の俳句はあまり読まなくてもいいような気にさえなったものである。
「現代の詩人の決意を見る」と言い切ったところに、山本健吉の評論家としてのアイデンティティがあった。俳人を俳人としての枠に納めるのでは無く、広く詩人としての眼差しをもって俳句を詠っているかと見つめることが重要なのであった。
しかし、昭和26年6月にしたためたこの後書から11年、昭和37年10月の後書では、「私は今の俳壇の新しい動きに、ほとんど興味を失っている。」と述べ、子規、虚子から草田男、波郷、楸邨あたりまでの俳句的達成への興味と、それ以後ではさほど興味が無くなったことを吐露している。
果たして現代俳句はどこへ行ってしまったのだろうか。俳人がいなくなったわけではない。年末恒例の俳句年鑑には今年も多くの俳人の作品が掲載されている。しかし、「現代俳句」で取り上げられた俳句に匹敵する句が何句あるだろう。私は詩ではなく俳句を読みたいと思っている。しかし、詩心を超えることもできず、捨て去ってしまった俳人の俳句など読みたいとも思わないのである。
2001.12.09(Sun)
白息と出でゆくものを怖れけり 藤田湘子
■第七句集『去来の花』/角川書店
高松へ。
思いがけずJRの車窓から陽光に映える紅葉を見ることができた。もう枯葉になって見ることもできないと思っていただけに、あざやかな赤や黄色の葉を纏った木々が印象的であった。
第39回、現代工芸美術家協会四国会展の最終日が月曜なので、一目その様子を見ようとMデパートを訪ねたのだが、出品作2点のうち1点「音の記憶」が売約済になっていた。画廊関係者に伺うと、今朝、所望があったとのこと。未知の高松市在住の方であった。この景気の悪い中、私の作品に目を止められ、気に入って下さったことが喜びである。また心して、自分の気持ちに誠実なものを創っていこうと思う。
2001.12.08(Sat)
それにしてもああいふ寥しい処を毎年のやうに訪づれるということは、和歌をものする女のならひではないか、・・・
室生犀星
■『室生犀星全王朝物語 上』「えにしあらば」より/作品社
「車して朱雀大路の宵のほどを行きたいのが常の女のならひであるのにと少将は笑ひながら云つた。」と続く。
平安貴族の女性を題材にしたものであっても、犀星の語り口を借りれば和歌を作るものは鄙びた所を好むもの、普通の女性ならば人の往き来の多い賑やかな所を好むものをと言っている。
それが真実平安朝の貴族の思考なのか、犀星の希求なのかは知れないが、和歌を好むものは少し常人とは違ったところがあるのは事実だろう。簡単に言ってしまえば、野球やサッカー好きと短歌、俳句好きの違いのようなものである。勿論どちらも好む人達がいるが、やはり大きくふた手に別れるに違いない。
これら王朝物は「婦人之友」から依頼されての機縁として、昭和15、6年頃から始まったようであるが、今読むと相聞の言葉など奥ゆかしく美しく使われていて心にしみる。
晴天。夕日が赤々と沈む。
A、11月16日入籍によりYに改姓。愛称のままAでよいとのこと。
Jと遊ぶ。
2001.12.07(Fri)
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子
■『五百句』/改造社
「昭和八年一月二十六日。丸之内倶楽部俳句會。」と注記がある。山本健吉の『現代俳句』では、この年の作としては、「襟巻の狐の顔は別にあり」を紹介して、滑稽な句であり、また風刺的でもあると批評している。
この句、丸之内倶楽部俳句會での作とすれば、写生ではなく席題であろう。凍蝶が「魂のごとく飛ぶ」なら凡百の比喩になってしまうところを、そこに今しも蝶の身体から抜け出し消え入るような魂を見て、それを追ってか弱く飛んでいるのだとは、見ることを通り抜けた感性という他あるまい。
後から深読すれば、人間とても「凍蝶」のように、「己が魂追うて」暮らしているのだともいえるだろうが、邪推は禁物。ただ宙に舞う、凍蝶の魂とその姿を連想して目と心を遊ばせよう。至福の時間が流れてゆくだろう。
2001.12.06(Thu)
1953年に遺伝子というものが発見され人間もまたコンピュータのように情報の集積にすぎないのだということが証明された。
山川健一
■『ダ・ヴィンチ』2001年12月号/メディアファクトリー
何か違うような気がする。かつて人間の記憶や想像力のようなものを真似できる機械を目差してコンピュータを創ったのであって、人間は遺伝子を使ってコンピュータの真似をして情報を集積している訳ではない。
また、情報の集積に過ぎないのなら、エネルギーを発生させて生活するよりも、ハードディスクや鉱物のように、情報を閉じ込めたまま必要になるまで眠ってしまうほうが効率がいいように思う。
しかし、遺伝子が発見されて、まだ50年にも満たないとは知らなかった。それなのに、これまで生物は営々と働きつづけ、いつのまにかこんな文明を作り上げたのだから大したものである。複雑に絡み合った遺伝子も解読され、置き換えられる世の中なのだから何があっても不思議ではないが、せめて情報集積装置にだけはなりたくないと思う。
さて、今日、ワタシハナニヲツクッタノダロウカ?
2001.12.05(Wed)
何千年も飛行して、いくつかが地球に落ちてくる。
池澤夏樹
■『デザインの現場』2001年12月号/美術出版社
先日から少し気になっている広告がある。アドビシステムズが発売しているDTPソフト「InDesign」の宣伝である。見開きページに、京都らしい山々と霞んだ五重塔を背景に女性モデルがやや手を広げ、光を浴びるように立っているのだが、そこに小さな文字が雨のように降りそそいでいるものである。
何の文字を印刷してあるのだろうと、読めそうなところを拾い読みすると、上掲のような言葉が目に止まった。素粒子とか、星の爆発などという言葉の後に続いていた。なるほど、この文字は地上に落ちてくる星のかけらなのかと思いながら、広告の隅をみていると、「風景中の文章は池澤夏樹『スティル・ライフ』中央文庫」とあった。
池澤夏樹の文章など読んだ記憶がなかったのだが、こうやって広告に使われ、わざわざ読みにくい文字にされてしまうと、何だか反対に読んでやろうという天の邪鬼の思いがわいてくるから不思議である。もちろん疲れて途中でやめてしまったが。
素粒子は燃え尽きることもなく地上に落ちてくるのだろうか。紫外線のように。
2001.12.04(Tue)
放火の理由を、性的興奮を得たいためと答えた犯人もいるほどだ。そのような人間を、私たちはピロマニア(pyromania)と呼んでいる。
福島 章
■『Zen然』2001年12月号/日経BP社
放火の話が出るとなぜか「八百屋お七」の名前が思い出される。落語で何度か聞いて、その影響もあるだろうが、物語性があり不謹慎ながら面白く記憶できることによるのかもしれない。
落語では、「お七」、「吉三郎」の話になっている。やはり16才の娘の恋心や情念が強く感じられるところが、残忍な憎悪や恨みを持つ放火犯と一線を画し、後々まで語り草となった所以であろう。
お七は放火魔ではなく、放火マニアと呼ぶのだろうか。しかし、丙午生まれの女は不吉などいう俗説は、ここから起ったとは思えない。本当のピロマニアは火をつけたものの怖くなり、火の見櫓に登って半鐘を叩いたりしそうもないではないか。
遠火事の見えはうだいの湯舟より 大野稜子
「火事」が冬の季語であるとはじめて知って覚えた句である。
2001.12.03(Mon)
見ることをしない人間は、世界を眺め、その現実性を信じている。そのとき眺めることは解釈することに等しくなる−−−−眺めると同時に、それらを自ら解釈しているのだ。したがって眺めることと、解釈という制限を受けない、透明で純粋な見ることはまったく別のものである。
ドン・ファン・マトォス
■『20世紀の神秘思想家たち』アン・バンクロフト/訳 吉福伸逸/河出出版社
写真を撮られるのを嫌う人がいる。私もあまり好きではない。
私は常に撮る側の人間であり、被写体になってあれこれ指図を受けるのが嫌いなだけなのだが、スナップ的に勝手に撮られるのまで拒否するようなことはない。
ドン・ファン・マトォスは、メキシコに住んでいたヤキ・インディアンのひとりであり、カスタネダが師と仰ぎ、伝記を含め4冊の著書にその記録を残している。
ここでは「見る」ことと「眺める=解釈する」ことが、対比概念として置かれ、いかに見ることが難しいかを説明しているが、「見て考えよ」ではなく、「ただ見よ」と教育とは全く反対のことを諭してくれているように思う。
俳句の神髄と似通うものが「見る」という言葉に込められている。短歌では「眺める」ことが必要なのかもしれない。
2001.12.02(Sun)
ポインセチア愛の一語の虚実かな 角川源義
■インターネット『増殖する俳句歳時記』/編集 清水哲男
「え、ポインセチアって木なの?」
ポインセチアと聞けば12月に欠かせない真っ赤に紅葉した20から30cm前後の鉢植を思わないだろうか。
しかし、宮崎市内をタクシーで南に下り、掘切峠を越え、眼下に大平洋と鬼の洗濯岩を見下ろすドライブインに立寄り、思わず海よりも山側に歩み、それを見上げてしまった。
昔なら灌木といったところだが、2m近くの高さは優にある。そして、全体としては黄緑色だが、どの枝先も確かに赤く色付き、葉の形はポインセチアのそれであった。
なるほど、私たち4人は、あまりにも園芸種を見なれてしまい、野生のポインセチアの生態を見聞きする機会がなかったのかもしれない。確かに歳時記にも「猩猩木(ショウジョウボク)、クリスマスローズ」とあった。トウダイグサ科の低木なのである。
「ポインセチア」として、俳句の冬の季語として使うとき、私の頭の中には、この陽光降りそそぐ宮崎の海の斜面と、枝々の下をくぐり抜けて歩いた記憶が蘇るに違いない。これは問題になりそうな予感がする。「愛」なんて似合いそうもない風景が広がっていたのだから。
2001.12.01(Sat)
鷹俳句会の九州沖縄地区指導句会に参加。
宮崎、シーガイアで開催された今回の催しに184名が参加。開会時間の午後1時に間に合わせるために、高知から伊丹空港を経由して久しぶりに宮崎空港に降りる。
宮崎には仕事で何度か来ているが、句会に出席するために仲間と来たのは初めてである。今回は一般の披講では私の句に全く点が入らなかったが、湘子主宰の選に入ったので佳しとするしかない。特選にはまだまだ遠い道のりである。
偶然、夜神楽の一部を見ることができた。本来、33種の舞いがあるそうだが、その中から保存会の人達が8種を選んで舞っていたのである。
踊り自体はそれほど旨く無い。ほとんど素人が練習した程度なのだから仕方ない事。しかし、その合間に、竹筒で沸かした振舞酒(かっぽ酒と呼んでいた)や様々な煮しめの盛り合わせを御馳走になり、懇親会が始まる前からほんのり酔い心地であった。
何と言っても、竹筒が外から会場に運ばれて来て、ほんのりと焼酎の香りがただよった瞬間、宮崎へやってきた思いを強くしたのであった。そしてまた新しい出合いもあった。
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