「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2002.06.27(Thur)
古代、大空は空飛ぶ象でいっぱいでした。体があまりに重いため時には木にぶつかり、他の動物たちをびっくりさせていました。
グレゴリー・コルベール
■雑誌『SWITCH』2002年6月日号/スイッチ・パブリッシング
象と少年の写真がある。そして、マッコウクジラの傍で泳いでいる男の、ずいぶん古びて見える写真もある。
ベネツィアのサンマルコ広場を背にした造船所「アルセナーレ」で、7月9日まで、13,000平方メートルの敷地を使って、写真家グレゴリー・コルベールの作品展が開催されていると紹介されていた。
掲出の言葉は、この展示会案内に寄せて書かれた物語とのこと。ある男が、364通の手紙を妻に贈る話がベースらしいが、私の頭の中には、優雅に「空飛ぶ象」の群れが飛び回り、時々ドジな象が樹を薙ぎ倒したりといった風景が浮び、この上なく想像力をかきたててくれた。
大きな和紙に写真プリントしたものとのことではあるが、ゆったりとした時間が流れ、今にも止まりそうに思われるのは、無彩色に近い色彩から来る受ける印象、そして、モチーフの選択の妙によるものであろう。
2002.06.24(Mon)
だから今はまだ安心して子供でいてくれていい。大人になるとは言葉を増やすということなのだから、傍にいてその手伝いもしてやろう。一緒に美しい言葉に出会おう。だからゆっくり大人になれ。
井上すず子
■俳句雑誌『鷹』2002年7月日号/鷹俳句会
思い掛けない言葉に巡り会った。「大人になるとは言葉を増やすこと」とは、実に明快である。「夏の子供」と題するたった1ページの文章なのだが、わが子に話し聞かせるように、自分の腹の中に向っても語り聞かせている。
子育て真っ最中の井上すず子は、きらきらと輝いている。きっと飾らず、子供と真剣に対話しながら生きようとしているからに違いない。明らかに夫に向う時とは異なっているだろう。
2000年、夏、
だいぢやうぶとは涼やかな呪文かな すず子
2001年、冬、
雪はげしかなはねば夢語らざる すず子
2002年、春、
だいじにす雛飾る手もの書く手 すず子
ひらがな一文字もおろそかにせず、わかりやすい言葉で、本気で思いを書きとめている。生きるとは足下をしっかりさせ天を見上げること。しかし止まってはいけない。
すず子は、幸せは「かくも退屈」といい、また「最大公約数的」とも捉える。また一方では、「もう次のしあはせ」を探しに出かけようともする。それはきっと、新しい言葉や感動に出会いたいと常に願い、細胞のひとつひとつが朝起きるたびに敏感に泡立ち、生命感に満ちているからだろう。
2002.06.023(Sun)
「私は、この主人公の女性がとても好きで、自分で演じたのに、何度映画を見ても毎回泣いてしまいます(笑)。」
Cong Li(コン・リー)
■雑誌『婦人公論』2002年5月22日号/中央公論社
篠山紀信の撮った写真が表紙であった。メイクアップか本物か、涙が頬をつたう写真を表紙に使うのも珍しい。
通訳の名前は出ていなかった。したがって、正確な訳ではないかもしれない。しかし、女優コン・リーが、自分で演じ、自分で見て毎回泣いてしまうという感受性の鋭さは伝わってきた。勝ち気そうにも見える女性ではあるが、それは心の強靱さが表に現われた時であり、あらゆる感動に震える心を失わない鎧なのだろう。
映画「きれいなおかあさん」は、スン・ジョウ監督作品。私はまだ見ていない。映画館で予告だけは見たが、泣いてしまいそうな映画は苦手。ただ、コン・リーのスッピンの顔と演技には少し興味がある。
「紅いコーリャン」から、どんどん美しく歳を重ねる感性豊かな女性の今の姿も記憶に留めておきたい。美しさは歳と共に衰えるのが必然だが、それを補うのがこころの豊かさだろう。
「自分自身が納得して、生きていければいいと思います。」とも語っている。
22日、馬と遊ぶ。夏至が過ぎたとは言え、まだまだ日は高かった。
勝負の行方は・・・
2002.06.016(Sun)
戯曲というものは、無限の過去から無限の未来へつながっている時間、また無限定にひろがっている空間、それを限られた上演時間と限られた舞台空間の中に、いわば引きたわめて凝縮的、圧縮的に表現するものなのだ。
木下順二
■日刊『日本經濟新聞』2002年6月16日、40面/日本經濟新聞社
「馬の季節」と題したミニエッセイより。1914年生まれの劇作家、木下順二には、54年の馬との季節が彼の人生の中にあった。450Kg近い馬体の中に凝縮させた力をあやつる技を戯曲にたとえた文章ではあったが、さすがにすべての芸術表現に通じる内容である。
彼の戯曲では、やはり「夕鶴」より「子午線の祀り」が私好みである。時間と空間の概念が明確であり、それをあやつる人間が勝者となるよう美しく描かれている。また、鉄砲がなかった時代の弓矢や刀、鎧兜、馬、船などによる戦が男を際立たせるものであったことを強く感じさせてくれる。
愛媛県の滑床渓谷に遊ぶ。青葉と渓流の音、様々な巨岩を楽しんだ。
2002.06.015(Sat)
あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝不器男
■「日本の詩歌 30俳句集」中央公論社
旧暦5月5日。愛媛県松野町の芝不器男記念館へ。芝不器男は昭和初期、俳壇に彗星のごとく現れ、28歳で夭逝した俳人である。
この町にはあまり知られていないが、つい頭を撫でたくなるほどユニークな狛犬の間を通り抜け、参道のゆるやかな階段を登ると御嶽(みたけ)神社がある。四国あるいは死国の気が集まっている場所のひとつ。社殿の前に伏せられた石は、黄泉の世界との出入口を塞いだ結界である。地霊として異端神とされた神々が暴れると地震が起る。
2002.06.01(Sat)
線香花火の最後の一つの丸い光の固まりのような丸い月が水平線を登って行く。生まれて初めて見る水平線からの月の出だった。
三好伸
■音楽雑誌『LaTina』2002年6月号/ラティーナ
2002年4月26日、ラプラタ川に浮ぶヨットの甲板から、オレンジ色の世界の中で、水面に沈む太陽とその反対側から昇る満月を見た驚きが描き止められている。きっとアルゼンチンのラプラタ川はそんなにも川幅が広いのだろう。河口であったかもしれない。しかし、遠洋航海でもしない限り、月も太陽も、水面から昇り水面にむ姿を見るのは難しい。
私が最後に水平線から昇る満月を見たのはいつのことだろう。
かつて、高知の桂浜から見る十五夜の月を楽しみに行ったことがあるが、思いに反して、眼前の水平線からではなく後ろの松原から昇ったのにがっかりした記憶がある。また、別の所でも海からの満月をと期待したことがあるが、水面近くに雲がただよい、結局、雲から上がる月でしかなかった。
今年のアルゼンチンの「ガルデル音楽賞」では、アルフレッド・カセーロが日本語で歌った「島唄」が最優秀歌曲賞など4部門を獲得した。
そのカセーロが、ヴェノスアイレスを訪れた宮沢和史を案内して、一日だけは仕事をさせない日としていたのが、この26日だった。暦を調べてみると確かに満月。
朝、迎えにきた彼は、普段と変わらぬ格好を見て、
「何だ。その格好は・・・今日は川遊びをするんだぞ」とヘソをまげたそうである。仕事だけではなく、遊びを楽しもうとするラテン気質、そして、自分にとって一番素敵な場所を見せたいという思いが伝わってきた。
掲出は、三好伸の同行取材記事からの引用。
午後、珊瑚工芸家のK宅を訪問。美味しい枇杷をごちそうになった。庭の躑躅に多くの揚羽蝶が集まってきていた。
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