「虚子俳話」のようにはいかないが・・・
2001.09.30(Sun)
名前を忘れると帰れなくなるから。
宮崎 駿
■映画『千と千尋の神隠し』/スタジオジブリ/徳間書店
雨。午後の予定を変更して映画館に出かける。そろそろ落ち着いてきたころかと思って出かけたのだが、開演5分前のエレベータは4階で止まり、5階まで延々とアベックの列が続く。すでに満員状態とのこと。これも雨のせいなのかしら。
結局、書店と喫茶店で時間を潰し、午後4時10分からに変更。それでも、ほぼ満員に近い集客状況であった。
しかし、しかしである。これがこんなに人の入る映画(しかもアニメーション)だろうか。かなり気持ちの悪い描写も多かった。私には不可解で仕方がない。
あんなに小心者の子娘(千尋)が、はたして龍の口を押さえたりできるだろうか。千と千尋は別人のように描かれている。それがアニメの良さなのだと言ってしまえばお終いなのだが、あまりにも都合良すぎて腹が立ってきてしまった。
唯一、心に残った科白は、「名前を忘れると帰れなくなるから」であった。八百万の神々よ、もう少し美しく描かれたいとは思わなかったか?
2001.09.29(Sat)
午前中晴天。午後2時を回ると雲が全天を被いはじめ、涼やかな風が流れ始めた。
仕事、その他もろもろのストレス解消に、郊外へ出かける。車のガソリンが少なくなっているのが少し気掛かりではあったが、さほど走り回るわけでもないので、そのままにしてしまった。この1ヶ月で、愛媛へ帰省した以外あまり乗っていないので、やっと400Km/月といったところ。
仕事や付合にかまけて、身体を動かす機会が少ないので、ラフな格好で野山を歩くと、後頭部からすぐ汗が吹き出てくる。山あいでは、今頃コンバインで稲刈りを行っていたが、男がただ独りで黙々と機械を操作するばかり。昔のように鎌で刈る必要もなくなったが、そのぶん共同作業の必要性もなくなってしまった。
天気は下り坂。Iは風邪に罹ったらしい。Jと遊ぶが、いつもより機嫌が良い。Aちゃんは妊娠3ヶ月とか。(オメデトウ、速く結婚しろよな)。彼女がいなくなると寂しくなる。もう少し美しい秋夕焼を期待していたのだが残念。そのかわり、ふくれた薩摩芋のような黄色い月が昇った。あと2日で十五夜である。
2001.09.28(Fri)
「来てはいけない」
と叫びました。その声ははたして人間の言葉でありましたかどうか。
辻井 喬
■『変身譚』狐の嫁入り/角川春樹事務所
満6歳の晴明に母が叫ぶ。
信田の森に住む女狐が人間に化身し、阿倍野の郡司保名(やすな)との間に男の子を生した。しかし、それも夢の間、7年も化け尽くしたことこそ驚異である。
らいはん和尚は「葛の葉は死んだ」と告げたが、保名は一度もその名前を使ってはいない。まして子が母を「葛の葉」と呼ぶこともなかったであろう。
”子別れ”のために、女狐は後を追おうとする晴明の柔らかな手を噛みさえしたのである。言葉はすでに人間の言葉ではなかったかも知れない。
初出は雑誌「野生時代」。1976年。角川文庫に収録されたものと、このハルキ文庫に収録されたものでは、著者校閲によってわずかながら言葉が削り落されている。
2001.09.27(Thu)
さらにこの絵のように必ず「右手」が充てられるのも、「右手」を主座とし、右手が神の全能のしるしだからだ。
保田春彦
■『日本經濟新聞』2001年9月27日、日刊40面/ 日本經濟新聞社
写真では、カタルーニャ派「神の手」という約14cm四方のフレスコ壁画がモノクロで紹介されている。幾重かの円層の中から神衣の袖口と華奢な右手が描かれている。
中世のキリスト教美術はすべて聖書に準じていたため、神は決して全体像で描かれることはないとあったが、ミケランジェロのあのシステーナ礼拝堂の天上画はすでに中世を越えていたのだろうか。
確かにあの「天地創造」図で、神がアダムの指に触れようとしていたのも右手ではあったが、全能の神よりも若々しいアダムの肉体が美しく描かれていたのは明らかである。モーゼが見なかった神をミケランジェロは視ていたのかもしれない。
2001.09.26(Wed)
イスラム教で緑の三日月というと不浄の肉が入っていないというハラル印のこと。イスラム教徒はこのハラル印のついた肉しか食べてはいけない。
長田道昭
■『英語の雑学百科』2001年10月号/ 光文社
ハラル印とは何なのか、初めて聞いた言葉であった。こんな時、インターネット検索は抜群に役に立つ。それによれば、アラビア語の「ハラール(HALAL)」とは、神に「許されていること(もの)」らしい。
http://www1.ttcn.ne.jp/~trade-food.cars/halalfod.htm
コーランによると、豚肉以外でも死肉や絞め殺されたもの、打ち殺されたものはハラルとはならない。また、アッラーの名を唱えながら、頚動脈を切って殺さなければならない。それが、動物にとって一番、苦しまないで死ぬ方法だからとあった。頚動脈を切るためにあの鋭いナイフを持っていたのかと納得させられてしまった。
中秋の名月が近付き、月のことを調べていると、思わぬ言葉や風習に出会う。本当に土地と生活、言葉は切り離せないものである。
もっとも気になっていたのは、「緑の三日月」だったのだが、これは、また別の機会に。
夜は、俳句の「銅の会」。ホッチキスという方法で俳句を作って遊んだが、これもステプラーと普通名詞で呼ぶのが正確だろうか。世は事もなく動いている。
2001.09.25(Tue)
晴子亡く登四郎も居ず雲の秋 藤田湘子
■俳句雑誌『鷹』2001年10月号/ 鷹俳句会
私は「挨拶替わりに俳句でも」と頼まれると怖じけ付いてしまう。虚子のように、俳句を空気のように捉えられれば挨拶句も容易なのであろうが、まだまだ緊張してしまって、観念で終わりそうで恥ずかしくなるのである。
「雲の秋」は巧いけれども、まだまだ飯島晴子や能村登四郎の追悼句ではないと思っている。あくまでもこれは、藤田湘子の今年の秋に寄せる感慨句であろう。
鷹7月号において、湘子は「私はまだ晴子の追悼の句も文も書いていない。書けないというのが正直な気持だ。能村さんを悼む句もしばらく作れそうもない。」と記していた。それだけ二人への思いが強かった証でもある。まもなく刊行になる「飯島晴子読本」に頼まれた5枚ほどの文章も、まだ書けなかったとのことである。
昭和23年、能村登四郎と藤田湘子は、この年の馬酔木賞(新人賞)を一緒に受賞している。その年の8月、篠田悌二郎を指導者として「馬酔木新人会」が発足していた。最年長の登四郎は36歳、最年少の湘子は21歳、15歳違いであったが、以後、二人はことあるごとに好敵手と捉えられていた。
藤田湘子、1964年6月、「馬酔木」若手同人により「鷹」創刊。
能村登四郎、2001年5月24日逝去。90歳。
飯島晴子、2000年6月6日逝去。79歳。
2001.09.24(Mon)
使いやすいとはどういうことか。作業環境を整えるために注意すべきことは何か。メーカーの宣伝文句の裏に隠された本質を見ようとする姿勢は、この時分から続いているように思う。
森 恒三
■雑誌『月刊マックライフ(MAC LIFE)』2001年10月号/エクシードプレス
先日、白い彼岸花を見て喜んでいたのだが、牧野植物園へ行くと駐車場のあたりに赤白入り乱れて無造作に咲いていてやや幻滅。やはり珍しいものは希少であってこそ貴重であって、有り過ぎると有難味がなくなる。朱鷺(ニッポニア・ニッポン)のようになってしまっては、保存の意味すら問題ではあるが。
名前の表示はなかったが、鍾馗水仙(ショウキズイセン)と思われる黄色い彼岸花に似た花も咲いていた。これはかなり珍しい。
半日、K氏と仕事や作品制作について話をする。
森恒三のように、「宣伝文句の裏に隠された本質」を見ようとする人は少なからずいるはずである。いや居てもらいたいと思う。MAC愛用者の私が言うのもなんだが、MACは中途半端な改良に留めず、まだまだ進化すべきである。
98年11月に買ったPowerBookG3も古くなったが、まだG4を買いたいと思うほどではない。少し速く、ちょっと便利になるだろうが、決定的な何かが欠けているような気がしてならないのである。
2001.09.23(San)
男等が嘆きの笛を吹く花野
藤田湘子
■句集『白面』/牧羊社
高知鷹句会は、毎月第4日曜日、午後1時から開催。6句持寄り句会のため、投句締切は午後1時。口を酸っぱくして時間厳守と言っているが、必ず遅れて来る者がいて、全員を待たせる結果になる。本人に時間泥棒の感覚が欠如しているのだから、注意する気持さえ失せてしまう。近所の仲良し句会になるのだけは避けたい。私たちは文学の輩なのである。
句会で選句の遅い人は俳句が伸びないと言われる。俳句は決断の文学なのである。「Aか、Bか?」の瞬間的な決断が大切。間違っていたら諦めて、次に頑張る道が残されていると藤田湘子主宰は我々弟子に語ってくれた。
俳句の本質を見つめ、仲間や足下をもう一度確かめたいと思う。
2001.09.22(Sat)
この那珂太郎の詩を読んでいると、こちらの意図とは別に、言葉にはそれだけで自律的な働きがあることがよくわかる。
宮沢和史
■『詞人から詩人へ』/河出書房新社
宮沢和史(THE BOOM)の名前は知らなくても、沖縄音階をアレンジした「島歌」の作詞・作曲も彼の手によるものと聞けば親近感がわくかも知れない。
この本には、彼が選んだ22篇の詩とエッセイ、朗読CDの付録まで付いていた。ただし、朗読は私好みの声でなかったのが残念である。
宮沢和史は、那珂太郎の「<毛>のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス」を選んでいるが、それは、
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からむからだふれあふひふとひふはだにはえる毛(以下省略)
という、実に楽しく興味深い詩である。彼が本を買い求めるのは、「情報が欲しいためでは無く、たった一行の素晴らしい言葉との出会いであっても、その言葉を噛みしめ、ことばが織りなす世界やその背景の中に自分がたたずむ時間を買いたい」と述べるあたり、なるほど時間であったのかと納得した次第である。
コピー機の調子が悪くなった。普段は何気なく使っている機械だが、それが使えないとなるとお手上げである。深夜営業のS店に走り、100円玉と500円玉を機械に入れたが、新500円玉は相手にもされなかった。そういえば、沖縄の守礼門を描いた2千円札はそろそろ廃止にして、5万円札か10万円札を発券してもらえないだろうか。
とりとめのない一日を過ごす。明日も休みだと思うと、余計に自堕落になってしまう。やるべきことがありながら、手を付けようとしない自分を、少し哀れみながら、新聞や雑誌、インターネットを見て終わる。
金曜日に散髪に行ったので、少しは自分が変わっていると思うのだが、風呂に入ったり出たり、どうも目的が明確に見えていないのが原因であろうか。数字の入った具体目的や効果を示せば、内容がはっきりしてくるだろう。きっと。
高知競馬は10月7日(日)、8日(月)開催予定。9月は何故か前半に集中している。やはり、颯爽と走る馬を見ないと元気が出ないのかもしれない。
2001.09.21(Fri)
大いなる梨割れば芯わらふなり
小川軽舟
■小川軽舟句集『近所』/富士見書房
書籍小包を開いて驚いた。それは、彼がさっそうと登場してきた15年前、「軽舟」の俳号に老人を想像していて完全に肩透かしをくわせられたのと似ている。
処女句集に「近所」とは、何とあっさりした句集名を付けたことか。「朱唇」とでも、「正面」とでも、もう少し印象に残る名前があったのではないかと驚いたのである。しかし、鋭利繊細な刃物のような知性や感性を持つからこそ、あえてそれらを捨て去るような句集名を華としたに違いない。
句集名は、「渡り鳥近所の鳩に気負なし」の全作品中の最後の一句から選ばれているのは明白だが、彼はあえて自分を鳩に見立てようとしたのかも知れない。気負いを捨て、ありのままの自分でいようと、心底思えたとするなら幸いである。
マフラーに星の匂ひをつけて来し (平成 3年)
男にも唇ありぬ氷水 (平成 8年)
名山に正面ありぬ干蒲団 (平成 8年)
ソーダ水方程式を濡らしけり (平成 9年)
揚雲雀大空に壁幻想す (平成12年)
選べば20句ほどの印象句と、上記のような愛誦句がある。小川軽舟、一筋縄では語り尽くせない、謎と魅力のある男である。
「M氏日展審査員就任祝賀会」、久しぶりに午前3時まで飲んでいた。
2001.09.20(Thu)
「精神分裂病」という病名がなくなろうとしています。
山登敬之
■週刊誌『週刊文春』2001年9月20日号/文藝春秋
インターネットの日記サイトなどに登録する人は「精神分裂病」的な人が多いのではないかと思い始めたところであり、かなり印象に残った言葉である。
「もう、世界があらゆる意味のつながりを欠いてしまう。あるいは、記号であふれかえってしまうような状態をいうんです。その結果、なにをどうしていいかわからない、とてつもなく不安な状態が生まれるのです。」
この中の「記号であふれかえった状態」に、かなり感応してしまった。折しも、鞄には「視覚の幾何学」と副題の付いた行列式であふれかえった本を入れていて、まさに頭の中が数式であふれかえりそうな状態なのである。こんな時は、馬を見て、酒でも飲んで、きれいさっぱり忘れてしまうのが一番だろう。
1.スキゾフレニア
2.クレペリン・ブロイラー症候群
3.統合失調症
この3種類が新呼称の候補らしい。
ちなみに、私がこの「不連続日誌」を作成しているのは、言葉にかかわるデータベース作成作業のようなもので、コンテンツ(内容)を充実させ豊かにすることが、創造社会において必要となると考えているからである。まだ精神分裂病に罹っていないことを願うばかりである。
2001.09.19(Wed)
−−−これは・・・被虐の女人だ。
人は誰しも、多少の違いこそあれ、男は嗜虐、女人は被虐の倒錯した性的感覚を持つ。
池宮彰一郎
■日本經濟新聞連載『平家』2001年9月18日、日刊40面/日本經濟新聞社
平清盛が常盤御前(源義朝の妻)に初めてまみえた時の心奥の言葉である。時代小説は作家によって登場人物がどのようにも仕立てられる。はたして実在の常盤がそのような女人であったか知る由もないが、それもまた物語に興趣を添える。
「男は嗜虐、女人は被虐」とはいささか古風ではあるが、確かに人間は嗜虐と被虐の感覚を持つことによって種を保存、存続させようとしているのかもしれない。
道路わきの空き地で、白彼岸花の群生を見た。このそばの八重桜はいつも季節はずれの花を咲かせるのだが、何かこの土地の地力と関係があるのだろうか。
2001.09.18(Tue)
一方、他のプログラムに寄生しなくても活動できるタイプがあります。これは「コンピューターワーム」と呼ばれ、侵入と増殖するのはウイルスと同じですが、寄生しなくても活動できるため、ワーム(虫=Worm)と総称されるようになりました。
■eX'Mook『21世紀最新テクノロジー解体新書』/日刊工業新聞社
「コンピュータ・ウイルス」と「ワーム」、「トロイの木馬」は何となく違うものなのだろうと思っていたが、初めてその違いの簡単な解説を読んだ。
かつて、「アイ・ラブ・ユー」や「メリッサ」と呼ばれるウイルスが話題になったが、興味本意なのか、次から次ぎへと新種が開発されている。すでに、犯罪行為として捉えられていても、人間の創造欲を抑えることはできないのだろう。
アシュクロフト米司法長官が警戒を呼びかけた「W32.Nimda.A@mm」は、Webサーバを感染させ、ファイルを読むかプレビューするだけでウイルスを実行する危険なワームであると言われている。しかも、その名前を反対から読むと、アメリカ政府(administration)の口語表現になっている。もう少しましな名前が付けられないものか。こんな安っぽい名前では、開発されたワームが可哀想である。名前を恥じたワームが驚異を震うかもしれないではないか。
私はいつもMac とWin のNetscape Communicator を利用している。今日、他人のパソコンのInternet Explorer でこのサイトのTopページを見たのだが、名前の漢字表記が半分欠けてしまっていた。ブラウザーによって表記が異なってしまうのは問題なので、さっそく12Kの画像データと入れ替えることにした。
2001.09.17(Mon)
月光の象番にならぬかといふ 飯島晴子
飯島晴子の矜持と含羞に満ちた詩性を思う
大石悦子
■俳句総合誌『俳句研究』2001年10月号/富士見書房
女性俳人111人へのアンケートの中に、自作を除く女性俳人ベスト3句を答える欄があった。「月光の象番」の句は、私も好きな句である。かつて、飯島晴子の自薦句集にこの句を揮毫してもらったことがある。
大石悦子がこの句を選んでいたことに共鳴するとともに、「矜持と含羞に満ちた詩性」と短い中にも適確な批評を添えていることが嬉しかった。俳句は詩から遠いと思う。しかし、一句の中には、深く作者の眼力に捕らえられた詩性がなければ唯事で終わってしまう。そうかといって創りすぎ、作意が見え過ぎても鼻持ちならない。意識を「ふっ」と吹き飛ばし、そこに残ったキラリと光る塵のような詩性を摘み上げ、ポトリと短冊の上に落したものなのである。
現実主義者の飯島晴子の言葉が重かったのは、いつまでも俳句初心者のようにはじらいを内に秘めながら、矜持を持って詩性を問い続けていたからであろう。
2001.09.16(Sun)
生物のいのちが生まれる時、そのガイアの表面にサイダーの泡みたいにぶつぶつと小さな精神の粒が発生して、それが受精卵と一緒になって初めて生命となり誕生してくるんです。
坂口博信
■映画『FINAL FANTASY』パンフレット/東宝株式会社
昨日見ようと思っていた映画「FINAL FANTASY」を見た。すべてCGによる制作というのに釣られたのだが、時間があればもう一度ゆっくり観てもいいと思っている。人間の皮膚のホクロ、シミ、ソバカス、毛穴、ヒゲ剃りあとまでしっかり描写されていた。モデルとなる人間の顔面写真を撮り、修正を加えマッピングしたのであろうが、実に見事に仕上がっている。
ストーリーも悪くない。しかし、私の興味は、やはりそれぞれのマチエールの描写の完成度に向いがちで、「よくここまでやるもんだ」とその表現力に感心して観てしまった。だから、もう一度見るとしたら、そんな技術的なことはすべて忘れて、ストーリーの中に入っていかないと、本当の楽しさは味わえないだろう。主人公は、「アキ・ロス」という27才の女性科学者であったのも今日的である。
物語の舞台となる2065年まで、私は生きていないことを願うばかりである。
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