記憶の波動轍 郁摩
生命はすべて何ものかの波動に支配されて生きている。
素粒子の動きも、光も波動であり、言葉のリズムも波動であ る。体内に記憶された心地よい波動のリズムが韻文定型詩を 求め、短歌や俳句に私を導いてくれたのなら、今しばらくは この恩恵に浸っていたいと思う。 そそき 秋風の曾曾木の海に背を向けてわれは青天よりの落武者 塚本邦雄 一首の鑑賞には、地理と歴史、古典の知識も必要とさる。 能登半島の曽々木海岸、平安末期、壇ノ浦の戦いに敗れ配流 された平時忠とその一門、平家の赤旗に白く染め抜かれた揚 羽紋、そしてあの新古今集編者藤原定家の日記『名月記』に 記された「紅旗征戎非吾事(こうきせいじゅうわがことにあ らず)」までもが蘇る。しかし、「われは青天よりの落武 者」こそが塚本の矜持であり、現実世界よりも夢を喰らう作 者の栄光に他ならない。 塚本邦雄の名歌あまたあれど、この歌は私の記憶中枢に染 込み、折にふれ思い出される十首中の一首と言っても過言で はない。そして、記憶から呼び覚まされる時は縦書きでも横 書きでもなく、「アキカゼノソソキノ・・・」と音律が響く ばかりで、映像は後から顕ち上ってくる。初見では漢字がイ メージを広げ定着に役立ってはくれるが、一度記憶されてし まうと音だけでもイメージを喚起してくれる。 短歌は眺めるもの。眺めて次々と湧き起こる心の内なる波 動を楽しみたい。 秋風の馬上つかまるところなし 正木ゆう子 一方、俳句はただ見るもの。「見て考えよ」ではなく、透 明に、純粋にただ見なければならない。 かつて、絵画のデッサンとはまず視ることと教えられた。 与えられた時間の3分の2は視ることが大切であると。短歌 も俳句も詩も絵画も、不可視の世界を描こうとするなら眼前 のモノを描き尽くす力とそれを乗り越える創作力が不可欠。 そのためには視る力を鍛えなければならない。安易な創作で は、自分すら騙すことができない。いつか心を無にして受け 入れるなら、快感の波動の中にぽんと投げ込まれてしまうこ とを望むばかりである。 吾ガ事ニ非ズ このまま過ぐるなら過ぐるならばよ 花で も喰ふか 紀野 恵 この「過ぐるなら過ぐるなら」のリフレインがここちい。 「吾ガ事ニ非ズ」と片仮名まじりで詠われると、まさに定家 の苦悩がありありと感じられ、「花でも喰ふか」と慰めら れ、あやされているようでもある。もちろん、裏には、「花 も紅葉もなかりけり」の虚無が隠されているのは言うまでも ない。 京近く湖近く年暮るる 高野素十 この句を読むと、「近く」のリフレインとともに、まさに 「年暮るる」の活かされ方に、はたと膝を打つ。やはり俳句 はリズムである。小さな詩型に複雑な言葉や意味を持ち込ん でも重たくなるばかり。軽やかに時が流れ、その一瞬の命を 大切にすることが今を生きるということだと納得する。 二百万画素もて君を花腐し雨の神戸とともに包みぬ 黒瀬珂瀾 周囲の環境が絶えず変化している状況の中では、自分自身 もそのスピードで変化していかなければ現状維持も覚束な い。デジタルカメラの記録画素数が性能の証しとされる今を この歌は確かに書き止めている。「二百万画素」の言葉が古 びても作者の思いは残るだろう。 「俳句においても、素直なる心はいつも大切であります。俳 句に於いてもではなく、俳句に於いては殊更に大切であると 云わねばなりません」と、素十は述べている。 私は短歌は天啓と祈祷であり、俳句は真(まこと)を詠う ものと信じてきた。 詩歌とは死の究極を想はせて口ごもりつつまことを述る 塚本邦雄 「いたみもて世界の外に佇つわれと赤き逆睫毛の曼珠沙華」 とかつて詠った塚本が、今や私達とともに現世に佇っている ことを隠さず、「まことを述ぶる」のであればその痛みを共 感してみたいと思う。そして我々自身も変化する必要がる。 この惑星が滅びる前に。
(俳句雑誌「鷹」20003年9月号より)
「特集:短歌に学ぶ」の「総論・短歌と俳句」として寄稿 |