山廬集より
炭売の娘のあつき手に触りけり 飯田蛇笏
名句であるか堂々たる立句であるかなど一切問題ではない。「え!
あの蛇笏がこんな句を・・・」という驚きから、たちまち蛇笏が愛す
べき人間として身近に感じられたのである。「俳句に名前は不必要、
読人知らずでも名句は名句」と私は考えている。しかしながら、俳句
と俳号が一体化して予期せぬ膨らみを醸し出す佳句が存在する。
「くろがね」や「芋の露」や「竈火」の冷厳たる蛇笏が、こともあろ
うに乙女の手に触れるとは何事、しかも熱き手を感じるとは不届千万。
敬愛してやまなかった蛇笏に対する既成概念を崩した一句ゆえ、深奥
に潜込み、予期せぬ瞬間に脳裏をかすめ去る。きっと私は、この炭売
の娘に恋をしているに違いない。大正十二年作。
鷹1999年11月号より
物として拾ひし桐の一葉かな 藤田湘子
一句には拾った瞬間しか描きとめられていない。しかし、「物として」
みつめた湘子の視線を通して、秋櫻子、虚子へと遡る時間が流れ出し、
悠久の自然のいとなみへの畏怖と祈りが感じられる。削るより、黙る
ことによって名句が生まれると納得。平成十一年作。
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