雅洸さんの眼
轍 郁摩
あれはいつだったか、雅洸さんといえば思い出される情景がある。高知鷹句会忘年会の幹事役をお願いしたところ、鏡川河畔の割烹旅館「臨水」の広間での開催となった。宮大工によって建てられた凝った木造の建物や欄間、室内通路に鯉を泳がす太鼓橋など、林業関係者の宴席にも頻繁に使われていたのだろう。
雅洸さんは、仲間から差された盃を目を細めながらにこやかに、そして実に旨そうに飲み干しては、上機嫌で次々と返盃していたのである。
愛媛出身の私は、高知流の返盃には二呼吸も三呼吸も待ってもらって、忘れた頃にやっと返せた。しかし、雅洸さんは、嫌な顔など微塵も見せず、土佐弁で受け答えながら両手に花、いや三方、四方花でも周りの話に合わせ笑い声も絶えなかった。まさに人徳と思わずにはいられなかった。
句会ではやや朴訥。少し控え目で他者を傷つけず、作者の持ち味を実に上手く掬い取り、暖かく批評していた。しかも、誰に対しても変わらず、そのエッセンスを見極めてから的確に返答する思慮深さゆえに、仲間から愛されていた。
寒泳の陣美少女をかなめとす 雅洸 平4鷹4月号
少し離れた堤防からでも見守っていたのだろうか。寒中の海の水泳は男でもきつい。その中に、十六才くらいの美少女がひとり混じっている。男達が心配そうに近くを泳いでいるが、実は反対に励まされていたともとれる。寒泳の青年たちにとっては、その微笑みだけで救われよう。
この句が作られた頃、昭和から平成へと時代は動き、少女たちは成長し勇敢で逞しくなったと思う。雅洸さんが働いていた男の仕事場とされた林業現場にも若い女性が次々と現れ、重機を操縦したり現場監督を務めるようになったはずである。「かなめ」の言葉に想い至った瞬間、一句は時代を超える作品として記憶されることとなった。
そして、最晩年の一句、
身に残る野性枯野を彷徨す 雅洸 令6鷹1月号
芭蕉の枯野の句が浮かび上がる。農家の長男として生を受け、林業関係に生涯を過ごし、蝶同人、鷹俳句会の月光集同人として注目される活躍の場を得ながらも、土佐の一俳人として「野性」の炎を身内に感じ続けていたと知る。浮ついた言葉に頼らず、風土への畏れと共に謙虚に生きて来たのである。
雅洸さんの眼は、一句を成すために即物的に物を見るより、詩心を潜め、人と人の繋がり、生活、人を観る寧らかさにあふれていた。
岡本雅洸氏追悼(蝶267号 2024年5・6月 掲載)
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