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素十の俳句

  

高野素十(たかのすじゅう)は、1893年(M26.03.03)生まれの男性。
本名、與巳(よしみ)。医師。俳人。
高濱虛子に、大正12年より師事。山口誓子、阿波野青畝、水原秋櫻子とともに「ホトトギス」の四Sと称された。「芹」主宰。1976年(S51.10.04)逝去。

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蹴上インクラインの桜

私は、数年前の4月、京都の蹴上インクラインの桜を見に行ったことがある。
石垣に沿って満開の桜並木を見上げながら歩いていると、急に一陣の風が吹き上がり、桜の花びらが宙に舞い、瞬く間に先行く人が見えなくなるほどであった。

その時、この句が思い出され、なるほど「一かたまりの花吹雪」とは、これほど風に乗って飛ばされるものなのかと驚いた記憶がある。

素十の俳句は、ほとんど説明や解説がいらない。見たままを素直に、そのまま飾らず言葉にしている。どこかで、この句は吉野での作と聞いたことがあるが、吉野に限らず日本中、いや世界中どこであっても通用するのではなかろうか。

一句の中には、桜のことしか書かれていない。一物俳句いちぶつはいくの見本のような句である。真似しろと言っても、簡単にできそうで出来ない。究極の俳句とも言えよう。
このような句を、一生かけて一句でも残してみたいものである。

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素十全句集

『素十全句集』は、春1344句、夏1658句、秋1455句、冬・新年1135句の四冊に別れた文庫版サイズ。季節ごとに分かれているので携帯には便利なのだが、すべての季題別索引が「冬・新年」の分冊にしか無いのが残念。
句集の帯に、「俳句の道は、ただ、これ、写生。これ、ただ、写生。」と素十の言葉が輝いている。

  書 名:素十全句集
  発 行:1979年(S54) 12月20日
  著 者:高野素十
  発行所:永田書房


遍路杖と春

  

かつて、鷹俳句会の飯島晴子さん(2000.06.06 逝去)にお願いして、私の大好きな一句を著作の見返しに書いて送ってもらったことがある。

サインペンではなく、わざわざ墨をすり、毛筆で一字一字にしっかりと気持ちを込め、背筋をのばし、まっすぐに認(したた)められていた。

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飯島晴子の揮毫

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自解100句選 飯島晴子集

一読、説明のいらぬ俳句だが、作者の自解100句選集なので、その解説の一部を抜き出して紹介したい。なお、掲句は、昭和58年(1983)作。

自解も実に明瞭簡潔。俳句と同様に研ぎ澄まされている。私を俳句に誘って下さった揚田蒼生(あげたそうせい)さんももう居ない。

最後に、「空港へ着いて一安心、遍路杖を高く振って高知の人たちと別れた。」と、書かれている。この一書を開く度に、何度も手を振ってお別れした日の出で立ちと遍路杖が思い出されてならない。

  書 名:自解100句選 Ⅱ- ② 飯島晴子集
  発 行:1987年12月25日
  著 者:飯島晴子(いいじまはるこ)
  発行所:牧羊社
  定 価:1100円


ことばこそ

  

塚本邦雄(1920.08.07 – 2005.06.09 )の本は、特装版を除いて粗方持っているのだが、彼の秘書代わりを務めていた書肆季節社の政田岑生氏のご逝去後は、署名本の入手が難しくなった。

そのため、この歌集を古書店で購入できたのは、十年後であった。

  書名:第24歌集『約翰傳僞書』(ヨハネでんぎしよ)
  A5判、短歌研究社発行、定価:3,534円(税別)
  印刷発行:2001年3月5日

胸奥の砂上樓閣

見返しの遊び紙に、塚本邦雄の毛筆歌一首と落款

塚本邦夫毛筆署名

次の半透明の遊び紙に、勢いのある毛筆署名

そこひ(底翳、内障)とは、
眼の虹彩(こうさい)に異常がないのに、視力障害(くもり)が生ずる眼病(白内障・緑内障・黒内障など)の俗称である。

今日は、四月一日。エイプリルフール。万愚節。
午前中には、少し悪気のない嘘を言っても許されると言われている。

塚本が、処女句集『水葬物語』から夢見た韻律の楼閣は、この最終歌集『約翰傳僞書』においても、なお辿り着けなかった永遠の高みの彼方に、今も聳え建っているのだろうか。

この一首を思い出すと、天上からも水底からも鐘(カリヨン)の音が響き渡って来る。

Hello world! Come Have Some Tea

  

WordPressのSATEN(茶店) へようこそ。

 (注:このサイトは物販のお店ではありません)

イメージは、峠の茶屋。人生の坂道を登って来た方や迷いを持たれた方が、ちょっと立ち寄る山寺のような所と思っていただければ幸いです。

たとえば、喫茶去きっさことは、中国唐代の禅僧・趙州和尚の言葉。「お茶でも飲んで去れ」と相手を叱咤激励するもので、茶席の軸にも用いられます。

最近のAI和尚に、「喫茶」とは何ですか? と尋ねると、

「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」

禅語の「喫茶喫飯」を紹介されました。

もっと解りやすくと尋ねると、

簡単に訳せば、「お茶を頂くときはお茶をいただき、ご飯を食べるときはご飯をいただきましょう。」とのこと。つまり専念(一つの物事だけに力を尽くす)せよとの教えでした。

さてさて、ひととき「短歌」や俳句気になる言葉でも味わって行きませんか?


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