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沈黙の音

一度や二度読んでも分からない(理解できない)本がある。
作者の言葉や書いてある内容はうっすら分かるので、それで読んだ気になるのだが、実のところその真理が分かったのかと考えるとはなはだ心許無い。

上掲の言葉も、昔、読んだときはそれほど気にも止まらなかったのだが、また読み返してみると、なるほどそうだったのかと合点がいく。
興味の持ちようから来るものなのか、それとも、様々な雑学に触れイメージの幅が広がったからなのか、何となくすんなり落ち込んでくるから不思議である。

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『冥想』(新版)表紙

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『冥想』(新版)裏表紙

ヨガのディヤーナには、「音を観る」瞑想があるそうだ。これを作者は「観音」と呼んでいる。

仏教で使われる「観音菩薩」の、あの観音に違いない。玄奘三蔵(三蔵法師)は「観察された(avalokita )」と「自在者(īśvara)」の合成語で、衆生の苦悩を観ずること自在なるものと解釈し「観自在」と漢訳した。般若心経の冒頭にも「観自在菩薩」と用いている。

つまり、観世音菩薩かんぜおんぼさつ観自在菩薩かんじざいぼさつ は、サンスクリット語のアヴァローキタイシュヴラ ボーディーサットバ(avalokitasvara bodhisattva)を漢訳した同一のものを指している。

中国の仏典翻訳家として、六朝時代の鳩摩羅什くらまじゅうは「旧訳」、唐の時代の玄奘げんじょうは「新訳」として、同じサンスクリット語の「アヴァローキタイシュヴラ(avalokitasvara)」を、それぞれ「観世音」(悩める世間の人々の音声を観ずるもの)や「観自在」(衆生の苦悩を観ずること自在なるもの)と漢訳している。

話を戻そう。

書籍裏表紙の解説によれば、内藤景代ないとうあきよは、1946年、東京生まれ。早稲田大学ではフランス文学を専攻していたようだが、その後ヨガスクールを主宰し、ヨガや精神世界の著作を多く出版している。

内藤景代による「観音」、すなわち沈黙の音とは、音というよりは、響きで有り、空気などの媒体がなくても宇宙の彼方まで果てしなく伝播されるもの・・・というイメージを、観る・・・と捉えられているところが、私には新鮮であった。

続きを引用すると、

と、書かれている。「オーム」を唱え、共鳴し、宇宙意識に感応するのだと。

また別のページには、

とも、解釈している。

想像を宇宙に巡らすと、NASAが1977年に打ち上げた『ボイジャー1号(Voyager 1)』は、47年の時を超え、今も地球から光速で23時間かかる星々の中(地球から249億km)を、時速6万km(秒速17.1km)で旅をしている。

ボイジャー1号の推進力は、初期加速によるもので、動力源は、原子力電池(470W, 30V, 打上げ当初)、放射性同位体熱電気転換器(RTG)でプルトニウムの崩壊熱を利用して電力を生成して通信、姿勢制御等を行っている。しかも、2036年には、遠距離(電波の強さが距離の2乗に反比例して弱まるため)で、通信不能になるのではと心配されている。

初期加速で飛び続ける物体や光の波動とは、いったい何の中を移動しているのだろう。「量子もつれ」とは、ある意味、共鳴のようなものだろうか。しかし、遠く離れていても瞬時に影響を及ぼす不気味さは、まさに「観音」の作用のようでもある。

地球上で願った思いが、銀河の果ての宇宙の絶対者(例えば観音菩薩とよべるような何者か)に瞬時に届くなら、物質は不可能でも、思念がテレポーテーションするといった現象も観測できるようになるかも知れない。

「オーム」(発音はアオム、またはアウム)と唱える呪文が、胸から頭を抜けて響く時、その波動に共鳴・感応する何者かがいると信じれば、この宇宙がもっともっと面白く感じられ、仏教や天文学への興味も尽きることがない。

  書 名:『冥想』 
  著 者:内藤景代
  発 行:2004年7月22日(新版8刷) 初版は、1980.06.15
  出版社:実業之日本社

参考:

注1:ディヤーナ
ヨガや仏教において、瞑想や禅定、静慮などを指す言葉。意識を一点に集中し、その状態を継続することで、内面の静けさを得る実践法とされている。

注2:「観世音と観自在」
法相宗大本山薬師寺 管主 加藤朝胤(かとうちょういん)
https://yakushiji.or.jp/column/20220926/

注3:ボイジャー1号
ボイジャー1号(Voyager 1)は、1977年に打上げられた、NASAの無人宇宙探査機。


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芸と鏡

20年も前に出版された歌舞伎役者の言葉である。
4代目・中村雀右衛門は、重要無形文化財保持者(人間国宝)にもなったが、太平洋戦争での兵役や東宝の映画俳優の期間もあり、歌舞伎役者の子として生まれながらも波乱万丈の生涯であった。

歌舞伎座やこんぴら歌舞伎(金丸座)で、本物の歌舞伎を観たのも数えるばかり。そんな私がこの本を手にしたのは、生前の藤田湘子先生(2005.04.15 逝去)が新刊本を本屋で探したが見つけられなかった経緯の文章を目にしたからである。

『私事 -死んだつもりで生きている-』 (2005.01.07 発行)

歌舞伎役者の系図、中村雀右衛門(4)

今なら、Amazonに注文すれば翌日には届くようになったが、20年も前なら書店に注文を出しても1ヶ月くらい待たされるのが普通であった。

さて、童話の『白雪姫』ではないが、バレエ教室の壁一面の鏡を初めて見て以来、ダンサーや踊り手は、大きな鏡を見ながら自分の振る舞いをチェックして姿態を治すものだとばかり思ってきたから、「日本舞踏では練習中に鏡を見てはいけない」とは、実に新鮮で驚かされた。

文章の続きには、

日本の伝統芸の「型」は実に厳しい。

「だめだ」と叱ってくれる人がいる時はまだいいが、叱ってくれる人がいなくなると、どうやって型を守り、型を崩し、新しい型を生み出せばいいのか。マンネリに陥らず、自分を驚かせられるのかと途方に暮れてしまいそうになる。

工芸や短歌や俳句でも、常に昨日のわれを忘れて、今日のわれを生きようと思うが、古い型に閉じ込められ安易な日々を過ごしているような毎日・・・と、心の鏡を磨くことさえ忘れがちで、自分で自分に締め切りを作らねば、この怠惰な生活から抜け出せないのかもしれない。

今日を、今を生きていくのは、本当に難しい。

 

  書 名:私事 -死んだつもりで生きている-
  著 者:中村雀右衛門(4世)
  発 行:2005年1月7日
  出版社:岩波書店


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聖獣と人間

漫画雑誌『ビッグコミック』を読んでいたら、ギリシャ神話のスフィンクスに謎をかけられるような言葉に引き寄せられた。

ギリシャ神話では、謎が解けず多くの通行人が食い殺されたところを、オイディプスに「人間である」と答えられたので、スフィンクスは谷底に身を投じて死んでしまったとされている。

さて、引用文は西洋ではなく中国。かつて「シフゾウ」と称された聖獣がいたという話と、その顛末を描いた漫画開巻の扉絵の言葉。

画像(BigCo20250525a.jpg) 解像度(中)

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漫画『絶滅動物物語』の扉絵の言葉

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ビッグコミック表紙 (2025.05.25 発行)

漫画だけでは「シフゾウ」なる動物の姿がはっきりしないので調べてみると、

シフゾウ (四不像、Elaphurus davidianus) は、哺乳綱鯨偶蹄目げいぐうていもく(ほにゅうこうげいぐうていもく)(かつては偶蹄目とされていた)シカ科シフゾウ属に分類される偶蹄類。シフゾウ属における唯一の現生種である。属名”Elaphurus”は、「尾のあるシカ」の意。

とあって、飼育園で撮影したと思われる動物の写真もあったが、ちょっとがっかりした。

子供時代に「まさおかしき」や「みやざわけんじ」の話を聞いていて、後から写真を見てがっかりしたのと何処か似ている。

やはり、聖獣と言えば、麒麟、霊亀、応龍(おうりゅう)、鳳凰。そして、東西南北を守護する青龍、朱雀、白虎、玄武や、中央の黄龍 (こうりゅう)、神の使いの男鹿や白馬、白象たちだろうか。

角がシカ、頸部がラクダ(もしくはウマ)、蹄がウシ、尾がロバに似ているが、そのどれでもないと考えられたことが名前(四不像・四不相・四不象と表記)の由来、という説が有力らしい。

時代が進むと、人間のキメラ (chimera) もきっと作られてしまうだろう。果たしてその存在が、新たに生まれた者たちにとって幸せか不幸かは今の段階ではどちらとも言えない。「人間である」と、誇りを持って答えられるような存在であって欲しいと思う。

注1:キメラ (chimera)
  ギリシア神話に登場する生物「キマイラ」に由来。
  体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や個体のこと。

  書 名:漫画雑誌『ビッグコミック』掲載
       『絶滅動物物語』第3章 第4話「シフゾウ」
  著 者:漫画=うすくらふみ、監修=今泉忠明(動物学者)
  発 売:2025年5月10日
  出版社:小学館


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量子コンピュータの謎

  

武田俊太郎は、東京大学大学院工学系研究科の准教授。独自方式の「光量子コンピュータ」の開発に取り組んでいる。実用化できれば、室温・大気中でも動作し、通信にも利用できるメリットがあると考えられている。「量子テレポーテーションの研究」で有名になった東大の古澤明教授の隣室の実験室で研究しているそうだ。

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量子コンピュータが本当にわかる! (技術評論社発行)

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シュレディンガー方程式の解説図 (上記 p176、図6より)

一昨夜の午後8時37分30秒頃から3分ほど、南西の空から北東へと通過する国際宇宙ステーション(ISS)を、星の光の移動のように肉眼で確認した。
その中には、日本人を含め6名の宇宙飛行士が働いているはずである。

ISSの出現時間や角度、人工衛星や宇宙の星々の軌道計算には、コンピュータ(電子計算機)が無くてはならない時代になっている。しかし、現在のコンピュータは、電気のON,OFFを切り替えるトランジスタの集積回路をチップ化して、1秒間に10億回くらい切り替えて計算している。さらに、トランジスタには縮小化するほど故障箇所が減り、スピードが高速化するという利点もあった。

ところが、トランジスタサイズをこれ以上小さくして、原子1個ほどの大きさまで縮小させると影響が出てしまい、スイッチとして機能しなくなる限界に近づいていると。

そこで、私達が高校までに習った「ニュートンの運動方程式」では成り立たない物理現象・法則の世界では、「量子力学の物理現象」を使った量子コンピュータを完成させ、計算することが必要になってきたという。

ただし、応用可能な量子コンピュータが完成したとしても、何でもできる万能ではなく得意分野があり、まだ、60種類ほどの得意分野に限られ、今後新たな発見により増加するとも指摘されている。
(最新では、コロンビア大学の研究チームが「新種生物」を発見するように、これまで知られていなかった12種類の量子状態、「量子エキゾチカ(exotica)」を発見:April 17, 2025)

科学が発達する(つまり、人間が自然の原理や法則を新たに発見をしたり、仮説をたてて実験や観察で検証して技術開発に応用する)と、これまで見えなかったものや感じられなかったものが、確かな存在として認識できるようになるのだから不思議といえば不思議でもある。(電子レンジなんて、その最たるものか)

例えば、延暦24年(西暦805年)、僧・空海は長安の青龍寺において恵果和尚(阿闍梨)からたった1年足らずの間に真言密教の秘法を伝授されている。未だに未解明であるが、お互いの意識が超伝導状態になり、テレパシーのように流れ込んできたとも考えられる。一言ひとこと声で伝えたり、経文を読んで受得するのではあまりにも時間が短か過ぎるだろう。そう遠くない未来に解明される時がくるかも知れない。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の描画法なども、私にとっては謎のひとつである。

注1:ニュートンの運動方程式
古典力学において、物体の非相対性理論的な運動を表す微分方程式

注2:シュレーディンガー方程式
物理学の量子力学における基礎方程式

注3:古澤明
東京大学大学院工学系研究科教授


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胸打たざりき

  

自宅に「聖書」が何冊あるのか数えたことも無かったが、いつも机の引き出しに入れていたのは、下の2冊である。

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新約聖書と舊新約聖書(日本聖書協会発行)

『新約聖書』は、英語の必要から高校1年の時。そして、『舊新約聖書』は、俳句を始めた頃に旧仮名遣いの参考にしようと購入した。
キリスト教徒でもなく、参考書程度の範囲で利用しているに過ぎない。

今でも、何か調べたい言葉があると取り出し、両方を比べ、それでも分からなければ違う聖書、またはPCに入れてある「Bible Study.app」に語句を入れ、納得するまで何時間も何日も考え込んだりしている。

しかし、自分の蔵書を探すのが一番疲れる。確かに持っているはずなのだが、どこかに仕舞い込んでしまい、その所在が分からない。書棚にあふれ、大小の箱に入れたり、最悪はレンタル倉庫に何十年も仕舞い込んでいるのだから、わざわざ取り出すのは至難の業と半ばであきらめたりする。
(原稿を書くより、引用文献からそのページを注釈する作業等)

16 “But to what shall I compare this generation? It is like children sitting in the market places and calling to their playmates,
17 ‘We piped to you, and you did not dance;
we wailed, and you did not mourn.’
  (MATTHEW 11:16-17)

16 しかし、この時代を何にたとえようか。それは、広場に座って遊び仲間に呼びかける子供たちのようだ。
17 「私たちが笛を吹いても、あなたたちは踊らず、私たちが泣き叫んでも、あなたたちは嘆かなかった。」
  『新約聖書:マタイによる福音書 11:16-17 』

But whereunto shall I liken this generation? It is like unto children sitting in the markets, and calling unto their fellows, And saying, We have piped unto you, and ye have not danced; we have mourned unto you, and ye have not lamented.
  (Bibles:King James Version、Mat 11:16-17 KJV)

しかし、この世代を何にたとえようか。それは、市場に座って仲間に呼びかけながら、「私たちは笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。私たちは嘆き悲しんだのに、嘆いてくれなかった」と言う子供たちのようだ。
  (聖書:欽定訳聖書、マタイによる福音書 11:16-17 KJV)

そんな訳で、今や図書館で借りたり、インターネットで再購入するほうが効率的とも思えるのだが、読んだ記憶箇所があいまいだと、折角の言葉が宙を彷徨い途方に暮れるのである。

夜中に、「汝らのために笛を吹きたれど汝ら踊らず」、と思い浮かんだ時、あれは芥川龍之介、はたまた「毎日新聞」だったか、塚本邦雄の『けさひらく言葉』だったか、たしか・・・?

そこからが大変で、延々と妄想が始まる。イエスの言葉だったとしても、どんな場面だったかの記憶はかなり曖昧で、自分の探している情景との一致が得られなければ、また元の木阿弥なのだから。

パレスチナのガザ地区の230万人の命は、ますます深刻化している。イスラエルの為政者や軍人を支持し続ける人々は、これからもさらに傍観し続けるのだろうか。

注:日本聖書協会
https://www.bible.or.jp/


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