言葉」タグアーカイブ

聖獣と人間

漫画雑誌『ビッグコミック』を読んでいたら、ギリシャ神話のスフィンクスに謎をかけられるような言葉に引き寄せられた。

ギリシャ神話では、謎が解けず多くの通行人が食い殺されたところを、オイディプスに「人間である」と答えられたので、スフィンクスは谷底に身を投じて死んでしまったとされている。

さて、引用文は西洋ではなく中国。かつて「シフゾウ」と称された聖獣がいたという話と、その顛末を描いた漫画開巻の扉絵の言葉。

画像(BigCo20250525a.jpg) 解像度(中)

BigCo20250525a.jpg

漫画『絶滅動物物語』の扉絵の言葉

BigCo20250525b.jpg

ビッグコミック表紙 (2025.05.25 発行)

漫画だけでは「シフゾウ」なる動物の姿がはっきりしないので調べてみると、

シフゾウ (四不像、Elaphurus davidianus) は、哺乳綱鯨偶蹄目げいぐうていもく(ほにゅうこうげいぐうていもく)(かつては偶蹄目とされていた)シカ科シフゾウ属に分類される偶蹄類。シフゾウ属における唯一の現生種である。属名”Elaphurus”は、「尾のあるシカ」の意。

とあって、飼育園で撮影したと思われる動物の写真もあったが、ちょっとがっかりした。

子供時代に「まさおかしき」や「みやざわけんじ」の話を聞いていて、後から写真を見てがっかりしたのと何処か似ている。

やはり、聖獣と言えば、麒麟、霊亀、応龍(おうりゅう)、鳳凰。そして、東西南北を守護する青龍、朱雀、白虎、玄武や、中央の黄龍 (こうりゅう)、神の使いの男鹿や白馬、白象たちだろうか。

角がシカ、頸部がラクダ(もしくはウマ)、蹄がウシ、尾がロバに似ているが、そのどれでもないと考えられたことが名前(四不像・四不相・四不象と表記)の由来、という説が有力らしい。

時代が進むと、人間のキメラ (chimera) もきっと作られてしまうだろう。果たしてその存在が、新たに生まれた者たちにとって幸せか不幸かは今の段階ではどちらとも言えない。「人間である」と、誇りを持って答えられるような存在であって欲しいと思う。

注1:キメラ (chimera)
  ギリシア神話に登場する生物「キマイラ」に由来。
  体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や個体のこと。

  書 名:漫画雑誌『ビッグコミック』掲載
       『絶滅動物物語』第3章 第4話「シフゾウ」
  著 者:漫画=うすくらふみ、監修=今泉忠明(動物学者)
  発 売:2025年5月10日
  出版社:小学館


saten_logo80s.jpg

量子コンピュータの謎

  

武田俊太郎は、東京大学大学院工学系研究科の准教授。独自方式の「光量子コンピュータ」の開発に取り組んでいる。実用化できれば、室温・大気中でも動作し、通信にも利用できるメリットがあると考えられている。「量子テレポーテーションの研究」で有名になった東大の古澤明教授の隣室の実験室で研究しているそうだ。

Ryoshi20250510a.jpg

量子コンピュータが本当にわかる! (技術評論社発行)

Ryoshi20250510b.jpg

シュレディンガー方程式の解説図 (上記 p176、図6より)

一昨夜の午後8時37分30秒頃から3分ほど、南西の空から北東へと通過する国際宇宙ステーション(ISS)を、星の光の移動のように肉眼で確認した。
その中には、日本人を含め6名の宇宙飛行士が働いているはずである。

ISSの出現時間や角度、人工衛星や宇宙の星々の軌道計算には、コンピュータ(電子計算機)が無くてはならない時代になっている。しかし、現在のコンピュータは、電気のON,OFFを切り替えるトランジスタの集積回路をチップ化して、1秒間に10億回くらい切り替えて計算している。さらに、トランジスタには縮小化するほど故障箇所が減り、スピードが高速化するという利点もあった。

ところが、トランジスタサイズをこれ以上小さくして、原子1個ほどの大きさまで縮小させると影響が出てしまい、スイッチとして機能しなくなる限界に近づいていると。

そこで、私達が高校までに習った「ニュートンの運動方程式」では成り立たない物理現象・法則の世界では、「量子力学の物理現象」を使った量子コンピュータを完成させ、計算することが必要になってきたという。

ただし、応用可能な量子コンピュータが完成したとしても、何でもできる万能ではなく得意分野があり、まだ、60種類ほどの得意分野に限られ、今後新たな発見により増加するとも指摘されている。
(最新では、コロンビア大学の研究チームが「新種生物」を発見するように、これまで知られていなかった12種類の量子状態、「量子エキゾチカ(exotica)」を発見:April 17, 2025)

科学が発達する(つまり、人間が自然の原理や法則を新たに発見をしたり、仮説をたてて実験や観察で検証して技術開発に応用する)と、これまで見えなかったものや感じられなかったものが、確かな存在として認識できるようになるのだから不思議といえば不思議でもある。(電子レンジなんて、その最たるものか)

例えば、延暦24年(西暦805年)、僧・空海は長安の青龍寺において恵果和尚(阿闍梨)からたった1年足らずの間に真言密教の秘法を伝授されている。未だに未解明であるが、お互いの意識が超伝導状態になり、テレパシーのように流れ込んできたとも考えられる。一言ひとこと声で伝えたり、経文を読んで受得するのではあまりにも時間が短か過ぎるだろう。そう遠くない未来に解明される時がくるかも知れない。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の描画法なども、私にとっては謎のひとつである。

注1:ニュートンの運動方程式
古典力学において、物体の非相対性理論的な運動を表す微分方程式

注2:シュレーディンガー方程式
物理学の量子力学における基礎方程式

注3:古澤明
東京大学大学院工学系研究科教授


saten_logo80s.jpg

胸打たざりき

  

自宅に「聖書」が何冊あるのか数えたことも無かったが、いつも机の引き出しに入れていたのは、下の2冊である。

Bibles20250504a.jpg

新約聖書と舊新約聖書(日本聖書協会発行)

『新約聖書』は、英語の必要から高校1年の時。そして、『舊新約聖書』は、俳句を始めた頃に旧仮名遣いの参考にしようと購入した。
キリスト教徒でもなく、参考書程度の範囲で利用しているに過ぎない。

今でも、何か調べたい言葉があると取り出し、両方を比べ、それでも分からなければ違う聖書、またはPCに入れてある「Bible Study.app」に語句を入れ、納得するまで何時間も何日も考え込んだりしている。

しかし、自分の蔵書を探すのが一番疲れる。確かに持っているはずなのだが、どこかに仕舞い込んでしまい、その所在が分からない。書棚にあふれ、大小の箱に入れたり、最悪はレンタル倉庫に何十年も仕舞い込んでいるのだから、わざわざ取り出すのは至難の業と半ばであきらめたりする。
(原稿を書くより、引用文献からそのページを注釈する作業等)

16 “But to what shall I compare this generation? It is like children sitting in the market places and calling to their playmates,
17 ‘We piped to you, and you did not dance;
we wailed, and you did not mourn.’
  (MATTHEW 11:16-17)

16 しかし、この時代を何にたとえようか。それは、広場に座って遊び仲間に呼びかける子供たちのようだ。
17 「私たちが笛を吹いても、あなたたちは踊らず、私たちが泣き叫んでも、あなたたちは嘆かなかった。」
  『新約聖書:マタイによる福音書 11:16-17 』

But whereunto shall I liken this generation? It is like unto children sitting in the markets, and calling unto their fellows, And saying, We have piped unto you, and ye have not danced; we have mourned unto you, and ye have not lamented.
  (Bibles:King James Version、Mat 11:16-17 KJV)

しかし、この世代を何にたとえようか。それは、市場に座って仲間に呼びかけながら、「私たちは笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。私たちは嘆き悲しんだのに、嘆いてくれなかった」と言う子供たちのようだ。
  (聖書:欽定訳聖書、マタイによる福音書 11:16-17 KJV)

そんな訳で、今や図書館で借りたり、インターネットで再購入するほうが効率的とも思えるのだが、読んだ記憶箇所があいまいだと、折角の言葉が宙を彷徨い途方に暮れるのである。

夜中に、「汝らのために笛を吹きたれど汝ら踊らず」、と思い浮かんだ時、あれは芥川龍之介、はたまた「毎日新聞」だったか、塚本邦雄の『けさひらく言葉』だったか、たしか・・・?

そこからが大変で、延々と妄想が始まる。イエスの言葉だったとしても、どんな場面だったかの記憶はかなり曖昧で、自分の探している情景との一致が得られなければ、また元の木阿弥なのだから。

パレスチナのガザ地区の230万人の命は、ますます深刻化している。イスラエルの為政者や軍人を支持し続ける人々は、これからもさらに傍観し続けるのだろうか。

注:日本聖書協会
https://www.bible.or.jp/


saten_logo80s.jpg

筆文字と手紙

  

学校で墨を磨って字を習ったのは、小学校や中学校の国語の時間だった。それ以来、ほとんど自己流なので、褒められるような字は書けない。
弟が小さな書道教室に通い、何級・何段かもらっていたはずだが、あまり気にすることもなく、確かに字が上手ければいいが、そこまで努力しようとも思わなかった。

空海(弘法大師)の『風信帖ふうしんじょう』部分

「字の上手い下手は関係ありません。」と言ってくれると嬉しくなるが、流石に自筆の手紙を出そうとすると躊躇してしまい、礼状さえおろそかにしてきた。

字の良し悪しに気付いたのは、季刊『銀花』(文化出版局)の何号だったか、塚本邦雄の「芒彩集」特集で、散らし書きの現代短歌を見たときだった。あまりにも達筆すぎて、筆文字だけでは読めなかったが、印刷文字が添えられており何とか判読することができた。
このときばかりは、読めなくても上手い字ってあるもんなんだな~、とつくづく感心させられてしまった。私にとっては、絵を見るように頭の中にその筆跡が浸透して来るようで、背中がぞくぞくしたのを覚えている。

「高野切第三種」なる言葉も、このとき初めて知ったような有り様だった。

茂住 菁邨(もずみ せいそん)は、昭和31年生まれの書家。大学卒業後、内閣府に入府後、辞令専門官(国家公務員)と成り、令和3年に退官するまで41年間、勤めたとサライに記されていた。

Kankijirei20250423a.jpg

官記辞令の見本。辞令専門官の筆文字。

昔の能書家・能筆のように、内閣府の人事課に勤務して、毛筆で公文書を書くのが業務だったとのことだが、いつまでそんな役割の人が存在できるのか、未来社会を想像するとかなり怪しくなってしまう。

しかし、AI搭載ロボットに置き換えられず、気品が有り、正確で読みやすく、人間らしく味のある文字を書き続けてもらいたい。

注1:高野切について(Wikipedia)  

注2:引用文は、雑誌『サライ』2024年9月号、「国民栄誉賞から「令和」までをしたためた」と題したインタビュー記事」より
注3:『風信帖』は、空海から最澄へあてた手紙


saten_logo80s.jpg

モネの藤

  

橋本麻里はしもとまりについては、週刊文春に記載された肩書の金沢工業大学客員教授よりもWikiの「日本のライター、編集者」のほうが相応しいと思う。これまでにも、いろんな雑誌や書籍の文章に注目してきた。

今回は、『週刊文春』連載の「東洋美術逍遥・80」において、《モネと円山応挙、それぞれの「藤」》と題して、印象派のモネの展覧会(京都展)での気付きについて考察していた。

Hashimoto20250417.jpg

『週刊文春』の「東洋美術逍遥・80」部分(2025年4月17日号)

私も、モネの「睡蓮」の絵画をこれまでに何作も見てきたが、「藤」と名付けられた作品が2点来ていたとは知らなかった。橋本の記事を読み、改めて調べて見ると、

日テレ制作の開催案内『モネ 睡蓮のとき』「第2章、水と花々の装飾」において、
マルモッタン・モネ美術館から来訪の習作「藤」(no.6、no.7)の画像も知ることができた。制作は1919-1920頃、油彩、100x300cm。実に横長で大きい。

モネの習作 no.6「藤」と日テレ解説を引用

しかし、この2点から、円山応挙の《藤花図》屏風を連想するところが、橋本麻里の視点の面白さでもある。やや強引に「東洋美術」に結びつけようとしたのかも知れないが、画風や藤の枝振りは全く違う。円山応挙の《藤花図》は、もっと大胆な構図でより装飾的であり、視力の衰えたモネよりも鮮明に細部まで描かれている。

それでも、睡蓮の上部に垂れ下がった藤の空間をイメージできたとしたら、まさにモネが晩年を過ごした自邸の「ジヴェルニーの庭」にかかった緑の太鼓橋(Japanese Bridge)の藤棚を思い出せるだろう。

実は、高知県東部にも「モネの庭」と名付けられた施設が2000年4月にオープン。本家「ジヴェルニーの庭」を模した造園整備を行い、すでに、25年周年を迎えている。
なお、庭の名称は、開園前にフランス本国のアルノー・ドートリヴ氏より『 Jardin de Monet Marmottan au Village de Kitagawa(和訳名:北川村「モネの庭」マルモッタン)』として使用許可も得ている。

https://www.kjmonet.jp

Monet20250417a.jpg

北川村「モネの庭」の睡蓮と太鼓橋

北川村「モネの庭」の藤棚

一晩、寝返りを打ちながらモネの「藤」についてあれこれ考えていると、急に正岡子規の『墨汁一滴』の短歌が思い出された。新聞「日本」に連載された随筆の4月28日(1901年)の記事中、子規の亡くなる1年半ほど前のものであった。

かめにさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり  子規

  書 名:『週刊文春』
  発 行:2025年4月17日
  発 売:2025年4月10日
  発行所:文藝春秋

注:橋本麻里/1972年、神奈川県生まれ。
  金沢工業大学客員教授。最新刊『かざる日本』(2021.12)が好評発売中。


saten_logo80s.jpg