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桃太郎の黍団子

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『落語特選(上)』の表紙

落語の与太郎ではないが、今夜の主役は子供の金坊。父親が寝かそうと思って昔話の「桃太郎」の話をしても、今日ただいまの子供は、理論的でないと納得がいかない。反対に、ありがたい話をしてくれる。

「そうだろ? 黍団子をなぜ拵えたかと言うと、人間は奢ってはいけない。黍のようなまずいものを常食にしろという戒めなんだよ」

なるほど、そうだったのか・・・と、頷いてしまった。
「人間は奢ってはいけない」とは、なんと深みのある解釈だろう。
落語作家も、旨いこと考えるものだな~、と感心させられる。

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キビ(黍、学名 : Panicum miliaceum )Wikiより

しかし、黍団子も、今では、もち米に砂糖や水飴を混ぜ、そこに黍粉を加えて香りと色付けするような作り方が多く、貧しいから安く作るためや不味いモノではなくなっている。

また、米と言えば、昨年(2024年)の米の生産量が極めて不作だったわけでも無いのに、市場に米が出回らず極端に品薄の有り様。そして、米価が吊上がり、政府は新米の一般競争入札の後、備蓄米に対する法律を変え、古米や古古米、果ては古古古米まで流通させようと、令和の米騒動が演出されている。

2024年に、日照りや大雨による被害の地域があったとしても、本来なら需給不足になるはずのない状況なのだが、人為的心理操作で不足感を煽り、そこに付け込み米価格の上昇を図り利益を得ようとする大組織が、米の先物取引などを行っているからだろう。

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『米の生産量』農林水産省 統計部資料より

「あれっ? おとっつァん、寝ちまっつたよ。ひとが話をしているのに・・・寝ちまっちゃしょうがないじゃァないか。大人というものは罪のないものだなあ」

罪のない大人ばかりなら世はことも無いのだが、欲張りや悪人が増えるとお先真っ暗になる。そろそろ新しい「世直しが必要な時代」なのかも知れない。
そうして、お粗末な笑いではなく、芸のある落語をじっくり味わってみたい。

  

  書  名:落語特選(上)文庫
  編  者:麻生芳伸(あそう・よしのぶ)
  発  行:2000年1月6日
  発行所 :筑摩書房
  表紙装画:三谷一馬
  ISBN4-480-03535-4

参考:

注1:キビ(黍、稷、学名:Panicum miliaceum)〔ウィキペディア〕
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%93

注2:農林水産省 農業生産に関する統計(2)米の生産量
 https://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/data/06.html

  


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漢字さまざま

  

Youtubeを見ていたら、中国時代劇『九重紫』の新作紹介ビデオが始まった。
ところが、登場人物名と出演者名で、「ウ、ム、む、む〜」の有り様。

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Youtube『九重紫』のビデオ映像より

原因は、漢字の種類と読み方の問題に起因している。

もちろん、漢字には、日本で一般的に使われる常用漢字正字(旧漢字)、中国や台湾で使われる「簡体字」「繁体字」があることは知っているが、書けなくても読むくらいはできるとタカをくくっていたのだが、まったく手も足も出ない。

例えば、「竇」に「ドウ」と、フリガナが入っていた。日本では「トウ」とか「トク」、穴蔵とか水路のイメージ。部首が「アナカンムリ」で、下に「売る」の正字「賣る」が入っている。

中国歴史では有名な氏族名なのだろうが、日本史や世界史で習った記憶には一人も居ない。

簡体字はムリとしても、繁体字は日本の正字とほぼ同じだし、長年、塚本邦雄の短歌や評論、小説を正字で読んできたのだから大丈夫のはずであったのだが、人名はさっぱり分からなかった。これだけは、文面や内容から読み取る事もできず、何度も使って記憶するしかないのである。しかし、使う機会も無いとなれば尚更であろう。

私には、帰国子女の友人はいても、大陸育ちの中国人の知人が居ないので名前を覚える必要がなかったからかも知れない。

例えば、「図 と图 と 圖」「関 と关と 關」「広 と广と 廣」「売と 卖と 賣」が、同じだと言われても、慣れないと確かに読めない。

そんなことを考えていたら、Wikipediaの中に、「百家姓」(ひゃっかせい)」なる項目があることを知った。

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百家姓 (ひゃっかせい)の解説より

「千字文(せんじもん)」は有名だし、長詩であっても、各部分の意味もわかりやすく、臨書の見本にも使われているので読む機会も多い。
ところが、「三字経」や「百家姓」については、これまで触手も動かず、ほとんど見過ごしてきた。

なるほど、中国人の子供は、こんな漢字を書いて読んで学習してきたのかと思うと、日本の「いろは」仮名は何と簡単で便利だったのだろうと、弘法大師空海(774~835)に感謝せずにはいられない気持ちになった。

確かに、「いろは歌」を空海が作ったという証拠はまだ無いそうだが、彼の才能あればこそなどと、空想世界がますます広がり続けている。

「2025年7月5日の大災害予言」などが当たらず、この宇宙が平安で美しくありますように。

  

参考:

注1:百家姓 (ひゃっかせい)〔ウィキペディア〕
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%AE%B6%E5%A7%93

注2:千字文 (ひゃっかせい)〔ウィキペディア〕
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AD%97%E6%96%87

注3:雪竇重顕(せっちょう じゅうけん)〔ウィキペディア〕
 中国の北宋の禅僧。諡は明覚大師。俗姓は李。字は隠之。遂州遂寧県の出身。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E7%AB%87%E9%87%8D%E9%A1%95

 


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世界に刺さった棘

  

俳句雑誌『蝶』を読み返しながら、一瞬身体が強張った感覚を覚えた。

蝶俳句会は、昭和51年、高知県で創刊。たむらちせいを師系として、今は味元昭次が同人代表を務め、同人・会員二百余名の隔月誌『蝶』を発行している。

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『俳句雑誌 蝶 第272号』表紙

代表の味元昭次には何度も会っている。しかし、2頁の表題エッセーを寄稿した著者の森下菊には面識もなく、「蝶の俳人(同人)」以外の知識はない。

もう少し引用してみよう。

日本赤軍事件やパレスチナ開放闘争にかかわった奥平剛士と房子のことは、21年間の服役中に発表した第一歌集『ジャスミンを銃口に』(2005)を読み、記憶に残っている。

重信は、ハーグ事件(1974年、同志奪還のためにオランダのデン・ハーグのフランス大使館を占拠、シリアに逃亡した事件)への関与により国際指名手配され、2000年大阪で逮捕された。その後、裁判で懲役20年が確定し、2022年5月28日、刑期満了で出所している。
また、奥平は、リッダ事件(1972年、テルアビブ空港乱射事件)に加わり射殺されている。

銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君
爆音と共にまかれし投降のすすめのビラに絵をかく子らよ
飛んでゆけ こぼれし種子の吾亦紅獄から放つ力の限り

第一歌集から、私のノートには10首ほどの歌を書き残していた。

まだ第二歌集の『暁の星』(2022)は読んでいない。しかし、「人を殺せし人の真心」のフレーズを読んだだけで、胸の奥が騒立つ。

森下もまた、ナクバと聞いただけで、炎だつのかも知れない。

この遣るせない思いは、自分の無力さも自覚させるのだが、米国やロシアの大統領ほどの権力を持っていたとしても、正義の反対もまた正義である限り、永遠に果てしない殺掠が続くように思えて哀しい。
また、大英帝国の陰の権力者や政治家たちの、無慈悲な約束も忘れてはならない。

  書  名:俳句雑誌 蝶 第272号
  同人代表:味元昭次(みもと・しょうじ)
  発  行:2025年3月10日(2025.3.4月号)
  発行所 :蝶俳句会
  表  紙:森下 颯

参考:

注1:ナクバ (nakuba)〔アラビア語で大厄災のこと〕
 1948年のイスラエル建国とパレスチナ難民の発生をパレスチナ側からいう語。

注2:リッダ事件、テルアビブ空港乱射事件
 テルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港で発生。
 1972年、ロッド空港乱射事件、リッダ闘争(リッダはロッドの現地読み)


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沈黙の音

一度や二度読んでも分からない(理解できない)本がある。
作者の言葉や書いてある内容はうっすら分かるので、それで読んだ気になるのだが、実のところその真理が分かったのかと考えるとはなはだ心許無い。

上掲の言葉も、昔、読んだときはそれほど気にも止まらなかったのだが、また読み返してみると、なるほどそうだったのかと合点がいく。
興味の持ちようから来るものなのか、それとも、様々な雑学に触れイメージの幅が広がったからなのか、何となくすんなり落ち込んでくるから不思議である。

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『冥想』(新版)表紙

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『冥想』(新版)裏表紙

ヨガのディヤーナには、「音を観る」瞑想があるそうだ。これを作者は「観音」と呼んでいる。

仏教で使われる「観音菩薩」の、あの観音に違いない。玄奘三蔵(三蔵法師)は「観察された(avalokita )」と「自在者(īśvara)」の合成語で、衆生の苦悩を観ずること自在なるものと解釈し「観自在」と漢訳した。般若心経の冒頭にも「観自在菩薩」と用いている。

つまり、観世音菩薩かんぜおんぼさつ観自在菩薩かんじざいぼさつ は、サンスクリット語のアヴァローキタイシュヴラ ボーディーサットバ(avalokitasvara bodhisattva)を漢訳した同一のものを指している。

中国の仏典翻訳家として、六朝時代の鳩摩羅什くらまじゅうは「旧訳」、唐の時代の玄奘げんじょうは「新訳」として、同じサンスクリット語の「アヴァローキタイシュヴラ(avalokitasvara)」を、それぞれ「観世音」(悩める世間の人々の音声を観ずるもの)や「観自在」(衆生の苦悩を観ずること自在なるもの)と漢訳している。

話を戻そう。

書籍裏表紙の解説によれば、内藤景代ないとうあきよは、1946年、東京生まれ。早稲田大学ではフランス文学を専攻していたようだが、その後ヨガスクールを主宰し、ヨガや精神世界の著作を多く出版している。

内藤景代による「観音」、すなわち沈黙の音とは、音というよりは、響きで有り、空気などの媒体がなくても宇宙の彼方まで果てしなく伝播されるもの・・・というイメージを、観る・・・と捉えられているところが、私には新鮮であった。

続きを引用すると、

と、書かれている。「オーム」を唱え、共鳴し、宇宙意識に感応するのだと。

また別のページには、

とも、解釈している。

想像を宇宙に巡らすと、NASAが1977年に打ち上げた『ボイジャー1号(Voyager 1)』は、47年の時を超え、今も地球から光速で23時間かかる星々の中(地球から249億km)を、時速6万km(秒速17.1km)で旅をしている。

ボイジャー1号の推進力は、初期加速によるもので、動力源は、原子力電池(470W, 30V, 打上げ当初)、放射性同位体熱電気転換器(RTG)でプルトニウムの崩壊熱を利用して電力を生成して通信、姿勢制御等を行っている。しかも、2036年には、遠距離(電波の強さが距離の2乗に反比例して弱まるため)で、通信不能になるのではと心配されている。

初期加速で飛び続ける物体や光の波動とは、いったい何の中を移動しているのだろう。「量子もつれ」とは、ある意味、共鳴のようなものだろうか。しかし、遠く離れていても瞬時に影響を及ぼす不気味さは、まさに「観音」の作用のようでもある。

地球上で願った思いが、銀河の果ての宇宙の絶対者(例えば観音菩薩とよべるような何者か)に瞬時に届くなら、物質は不可能でも、思念がテレポーテーションするといった現象も観測できるようになるかも知れない。

「オーム」(発音はアオム、またはアウム)と唱える呪文が、胸から頭を抜けて響く時、その波動に共鳴・感応する何者かがいると信じれば、この宇宙がもっともっと面白く感じられ、仏教や天文学への興味も尽きることがない。

  書 名:『冥想』 
  著 者:内藤景代
  発 行:2004年7月22日(新版8刷) 初版は、1980.06.15
  出版社:実業之日本社

参考:

注1:ディヤーナ
ヨガや仏教において、瞑想や禅定、静慮などを指す言葉。意識を一点に集中し、その状態を継続することで、内面の静けさを得る実践法とされている。

注2:「観世音と観自在」
法相宗大本山薬師寺 管主 加藤朝胤(かとうちょういん)
https://yakushiji.or.jp/column/20220926/

注3:ボイジャー1号
ボイジャー1号(Voyager 1)は、1977年に打上げられた、NASAの無人宇宙探査機。


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芸と鏡

20年も前に出版された歌舞伎役者の言葉である。
4代目・中村雀右衛門は、重要無形文化財保持者(人間国宝)にもなったが、太平洋戦争での兵役や東宝の映画俳優の期間もあり、歌舞伎役者の子として生まれながらも波乱万丈の生涯であった。

歌舞伎座やこんぴら歌舞伎(金丸座)で、本物の歌舞伎を観たのも数えるばかり。そんな私がこの本を手にしたのは、生前の藤田湘子先生(2005.04.15 逝去)が新刊本を本屋で探したが見つけられなかった経緯の文章を目にしたからである。

『私事 -死んだつもりで生きている-』 (2005.01.07 発行)

歌舞伎役者の系図、中村雀右衛門(4)

今なら、Amazonに注文すれば翌日には届くようになったが、20年も前なら書店に注文を出しても1ヶ月くらい待たされるのが普通であった。

さて、童話の『白雪姫』ではないが、バレエ教室の壁一面の鏡を初めて見て以来、ダンサーや踊り手は、大きな鏡を見ながら自分の振る舞いをチェックして姿態を治すものだとばかり思ってきたから、「日本舞踏では練習中に鏡を見てはいけない」とは、実に新鮮で驚かされた。

文章の続きには、

日本の伝統芸の「型」は実に厳しい。

「だめだ」と叱ってくれる人がいる時はまだいいが、叱ってくれる人がいなくなると、どうやって型を守り、型を崩し、新しい型を生み出せばいいのか。マンネリに陥らず、自分を驚かせられるのかと途方に暮れてしまいそうになる。

工芸や短歌や俳句でも、常に昨日のわれを忘れて、今日のわれを生きようと思うが、古い型に閉じ込められ安易な日々を過ごしているような毎日・・・と、心の鏡を磨くことさえ忘れがちで、自分で自分に締め切りを作らねば、この怠惰な生活から抜け出せないのかもしれない。

今日を、今を生きていくのは、本当に難しい。

 

  書 名:私事 -死んだつもりで生きている-
  著 者:中村雀右衛門(4世)
  発 行:2005年1月7日
  出版社:岩波書店


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