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さよならの向う側

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『プレイバックPARTⅢ』文庫版の表紙

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『プレイバックPARTⅢ』文庫版の裏表紙

昭和世代以降の人は、歌手・山口百恵の引退コンサートで歌われた『さよならの向こう側』を何度繰り返して視聴したことだろう。

少し陰のある艶っぽい声と音にのせる情感は、同世代の女性たちを遥かに超えていたと思われる。
そして、この歌の作詞家が阿木燿子であり、作曲は宇崎竜童であった。

普段からあまり歌を口ずさまない私は、この詩の最初の三行の歌詞フレーズしか記憶に残らず、あとに続く、
「Last song for you, Last song for you」の耳障りのいい音ばかり心に繰り返して聞こえていたのだった。

いつだったか、行きつけの書店でこの新潮社の文庫版を見つけて購入したのは、阿木燿子の作詞が好きだったのと、カメラマン・篠山紀信の撮った山口百恵の数カットの写真があったからに他ならない。

山口百恵は、芸能活動を引退して俳優・三浦友和と結婚することが決まっていた。

阿木は、その事実を知っていたからこそ、
「何億光年 輝く星にも、寿命があると教えてくれた」と、芸能スターとしての輝きには終わりがある。しかし、「季節ごとに咲く一輪の花に、無限の命、しらせてくれた」と、一人の人間として季節ごとの花を咲かせつつ、生命の連鎖で無限の命がこれからは続くのだと、語り聞かせている。

優れた作詞家の歌詞に作曲家の音が乗り、魂を込めて歌える歌手がいると名曲が生まれる。
山口百恵の歌では、阿木燿子・宇崎竜童夫妻による「イミテイション・ゴールド」(1977年)や「プレイバックPARTⅡ」(1978年)の音感も好きなのだが、言葉としては「さよならの向う側」に惹かれてしまう。

ちなみに、「アポカリプス・ラブ」の歌詞には、ヨハネの黙示録21章6節から、
「私は アルパ・オメガ 汲んでも尽きぬ命の泉」ほかが引用されている。

最近、「Last song for you, Last song for you」と呟いて、
何故だか越路吹雪が歌っていた「ラストダンスは私に」を思い出してしまった。

実は、鷹俳句会を主宰した藤田湘子の十八番の持ち歌だった。毎年、東京會舘で開催された鷹俳句会新年会の二次会などで、興が乗ると終盤に皆に勧められて情感たっぷりに「」を取りながら、ややスローテンポに歌ってくれた。
俳句にも、落語にも、歌謡曲にも、この「間」が大切なんだぞ・・・と諭すような、実に温かみのある艶っぽい歌い方であった。

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藤と秋空

  書  名:プレイバックPARTⅢ
  編  者:阿木燿子
  発  行:1985年12月20日(S60)
  発行所 :新潮社 (新潮文庫)
  レイアウト:浅葉克己、
  写   真:篠山紀信

参考:
注1:阿木燿子
(あき ようこ、1945年5月1日 – )は、日本の作詞家・女優・小説家・エッセイスト。本名は木村広子(旧姓は福田)。明治大学文学部卒業。夫はミュージシャン・俳優の宇崎竜童。(Wiki)

注2:アポカリプス・ラブ
ヨハネの黙示録21章6節「わたしは、アルパでありオメガである。」
(日本聖書協会 Japan Bible Society 1955)


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イエス・キリスト

  

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『されど遊星』の箱表紙

前回のタイトルを「翡翠逍遥」としたので、思い立って書棚から塚本の分厚い第十歌集『されど遊星』を紐解き、何枚も色付箋をつけて見たのだが、一番気になったのは上掲の「キリストとイエス」の一首であった。

ちなみに、私は、父が神道、母が仏教、家には神棚が祀られていたが、あまり宗教へのこだわりもなく、「八百万の神や隠れキリシタンが好ましい」とうそぶけば丁度くらいのいい加減さで、臨機応変、その場に合わせて何の神でも仏でも拝んでいる。

従って、子供の頃は、イエス・キリストとは、「イエス」が名前で、「キリスト」が名字の男性で、十字架で磔になって殺された人・・・くらいの捉え方しかしていなかった。

何しろ、『新約聖書』の初めの「マタイによる福音書」の第一章には、

1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図
  
   (中略)
  
16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。

現在の日本人であっても、前知識なく読めば、「キリストさんにイエスくんが生まれたそうよ」と、読めてしまうだろう。

塚本邦雄が、いつからこの違いを教えられ気付いたのかは分からない。しかし、「はざまは厳しいのに・・・」と、多くの人の誤解を指摘しようとしている。

この歌集出版の1年前、塚本による現代俳諧頌『百句燦々』(1974年10月11日)が講談社から発行されているが、その第一句目は、石田波郷の句であった。

そして、この句に関する解釈で、塚本は次の様に述べている。

 抱かれるのが厩の嬰兒イエスであれ十字架下ピエタのイエスであれ、抱く者はつねに聖母マリアであつた。この作品の不可解な魅力はまづ抱かれる者の位相の倒錯と抱く者の遁走消滅に由緣する。抱く「キリスト」についても疑問はある。すなはちこれを巷閒言ひ慣はされて來たやうに、ほぼイエスと同義の固有名詞として用ひてゐるのか、本義通り「油注がれたる者、王」といふ普通名詞として用ひてゐるのか、後者ならば作者は基督敎徒もしくはそれに準ずる聖典、敎義の理解者であらうし、句は、人閒イエスならぬメシアそのものに抱かれる法悅を暗示することとならう。(後略)

すなわち、「イエス」とは、「紀元前4年以前に、マリアの処女懐胎により、ユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育った者の固有名詞。後に制度化されたユダヤ教を批判。西暦30年頃エルサレムで十字架の刑に処せられ死亡。しかし、死後、復活したと伝えられたナザレのイエス」である。

そして、「キリスト」とは、名字・苗字や家族名(ファミリーネーム)などでは無く、「元来、油を塗られた者の意として、王に与えられた称号。ただし、紀元後1世紀には、この世の終末に現れる救世主(メシア)の意味になった」と理解しなければならない。

歌集『されど遊星』は、殊の外贅沢な歌集で、内容は、1973年(S48)重陽から1975年立春まで、約五百日間に発表した短歌に新作五十首を加えた三百首。これを七篇に再構成して、見開き二首、1ページにはたった一首だけを二行書きの大ポイントで凸版印刷したもので、文字が匂い顕つ花のように並べられている。
左右の短歌を関連付けて読めば、また違った味わいも湧き上がり、何度読み返しても飽きることがない物語が潜んでいる。

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『されど遊星』の見開きページ

さて、黄昏に咲くのは夕顔であるが、昼に咲いた「ひるがほ」が夕方まで咲いていたのを見つけたと短歌ではさらりと言っているが、「あやまちて」が、人にも花にも掛かっているところが塚本風といえよう。また、昼顔は、朝顔ほど大きくも鮮やかでも無く、朝から昼にかけて咲き夕方には萎むところが哀れでもある。

加えて、この歌を作ったころの「ひるがほ」には、カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画『昼顔』(1967年)の官能的イメージもあったはずである。

なお、アサガオならば自家受粉でも種子を作るが、ヒルガオは他の株の花粉がなければ種を得られないそうだ。

そして、生物学的には、
  アサガオ(朝顔)は、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ
  ヒルガオ(昼顔)は、ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ
  ユウガオ(夕顔)は、ウリ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ

似ているようでも、夕顔とはかなり別物である。はざまは厳しいと言うべきだろうか。

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『されど遊星』の表紙

『されど遊星』の装幀も、いつものように政田岑生であったが、この表紙挿絵がどこから引用されたのか気になって調べて見た。

イタリアのアレッツォにある「サン・フランチェスコ教会」のバッチ家礼拝堂、ピエロ・デッラ・フランチェスカによるフレスコ画『聖十字架伝説』(1452〜1466年)の右上、天井近くの預言者(エレミア or イザヤ)のイラストらしい。

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預言者「エゼキエル」(左)と 預言者「エレミア」(右)

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サン・フランチェスコ教会の『聖十字架伝説』など

サン・フランチェスコ教会のバッチ家礼拝堂

ただし、右上の預言者が「イザヤ(Isaiah)」か「エレミア(Jeremiah)」かは、美術史家の間でもまだ議論が続いており、画像だけでは特定が難しいとのこと。今はエレミア説が主流らしい。ピエロの時代のイタリア美術では、エレミアが預言者として頻繁に登場し、視覚的伝統が強いとのことだった。
なお、左上は、預言者「エゼキエル」。

私は、313年に、ミラノ勅令で、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世だと思っていたので、ちょっと残念であった。

  書  名:されど遊星
  編  者:塚本邦雄
  発  行:1975年6月20日(S50)
  発行所 :人文書院
  装  幀:政田岑生(まさだ きしお)

参考:
注1:油を注がれる
祝福として、王や祭司、預言者などの重要な人物を任命する際に、油を塗る儀式が行われていた。

注2:アレッツォのサン・フランチェスコ教会
サンフランチェスコ大聖堂は、イタリアのトスカーナ州アレッツォにある中世後期の教会で、アッシジの聖フランチェスコに捧げられている。
ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)によるフレスコ画『聖十字架の伝説』(Leggenda della Santa Croce)が描かれていることで特に有名。(Wiki)


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胸打たざりき

  

自宅に「聖書」が何冊あるのか数えたことも無かったが、いつも机の引き出しに入れていたのは、下の2冊である。

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新約聖書と舊新約聖書(日本聖書協会発行)

『新約聖書』は、英語の必要から高校1年の時。そして、『舊新約聖書』は、俳句を始めた頃に旧仮名遣いの参考にしようと購入した。
キリスト教徒でもなく、参考書程度の範囲で利用しているに過ぎない。

今でも、何か調べたい言葉があると取り出し、両方を比べ、それでも分からなければ違う聖書、またはPCに入れてある「Bible Study.app」に語句を入れ、納得するまで何時間も何日も考え込んだりしている。

しかし、自分の蔵書を探すのが一番疲れる。確かに持っているはずなのだが、どこかに仕舞い込んでしまい、その所在が分からない。書棚にあふれ、大小の箱に入れたり、最悪はレンタル倉庫に何十年も仕舞い込んでいるのだから、わざわざ取り出すのは至難の業と半ばであきらめたりする。
(原稿を書くより、引用文献からそのページを注釈する作業等)

16 “But to what shall I compare this generation? It is like children sitting in the market places and calling to their playmates,
17 ‘We piped to you, and you did not dance;
we wailed, and you did not mourn.’
  (MATTHEW 11:16-17)

16 しかし、この時代を何にたとえようか。それは、広場に座って遊び仲間に呼びかける子供たちのようだ。
17 「私たちが笛を吹いても、あなたたちは踊らず、私たちが泣き叫んでも、あなたたちは嘆かなかった。」
  『新約聖書:マタイによる福音書 11:16-17 』

But whereunto shall I liken this generation? It is like unto children sitting in the markets, and calling unto their fellows, And saying, We have piped unto you, and ye have not danced; we have mourned unto you, and ye have not lamented.
  (Bibles:King James Version、Mat 11:16-17 KJV)

しかし、この世代を何にたとえようか。それは、市場に座って仲間に呼びかけながら、「私たちは笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。私たちは嘆き悲しんだのに、嘆いてくれなかった」と言う子供たちのようだ。
  (聖書:欽定訳聖書、マタイによる福音書 11:16-17 KJV)

そんな訳で、今や図書館で借りたり、インターネットで再購入するほうが効率的とも思えるのだが、読んだ記憶箇所があいまいだと、折角の言葉が宙を彷徨い途方に暮れるのである。

夜中に、「汝らのために笛を吹きたれど汝ら踊らず」、と思い浮かんだ時、あれは芥川龍之介、はたまた「毎日新聞」だったか、塚本邦雄の『けさひらく言葉』だったか、たしか・・・?

そこからが大変で、延々と妄想が始まる。イエスの言葉だったとしても、どんな場面だったかの記憶はかなり曖昧で、自分の探している情景との一致が得られなければ、また元の木阿弥なのだから。

パレスチナのガザ地区の230万人の命は、ますます深刻化している。イスラエルの為政者や軍人を支持し続ける人々は、これからもさらに傍観し続けるのだろうか。

注:日本聖書協会
https://www.bible.or.jp/


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