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イエス・キリスト

  

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『されど遊星』の箱表紙

前回のタイトルを「翡翠逍遥」としたので、思い立って書棚から塚本の分厚い第十歌集『されど遊星』を紐解き、何枚も色付箋をつけて見たのだが、一番気になったのは上掲の「キリストとイエス」の一首であった。

ちなみに、私は、父が神道、母が仏教、家には神棚が祀られていたが、あまり宗教へのこだわりもなく、「八百万の神や隠れキリシタンが好ましい」とうそぶけば丁度くらいのいい加減さで、臨機応変、その場に合わせて何の神でも仏でも拝んでいる。

従って、子供の頃は、イエス・キリストとは、「イエス」が名前で、「キリスト」が名字の男性で、十字架で磔になって殺された人・・・くらいの捉え方しかしていなかった。

何しろ、『新約聖書』の初めの「マタイによる福音書」の第一章には、

1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図
  
   (中略)
  
16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。

現在の日本人であっても、前知識なく読めば、「キリストさんにイエスくんが生まれたそうよ」と、読めてしまうだろう。

塚本邦雄が、いつからこの違いを教えられ気付いたのかは分からない。しかし、「はざまは厳しいのに・・・」と、多くの人の誤解を指摘しようとしている。

この歌集出版の1年前、塚本による現代俳諧頌『百句燦々』(1974年10月11日)が講談社から発行されているが、その第一句目は、石田波郷の句であった。

そして、この句に関する解釈で、塚本は次の様に述べている。

 抱かれるのが厩の嬰兒イエスであれ十字架下ピエタのイエスであれ、抱く者はつねに聖母マリアであつた。この作品の不可解な魅力はまづ抱かれる者の位相の倒錯と抱く者の遁走消滅に由緣する。抱く「キリスト」についても疑問はある。すなはちこれを巷閒言ひ慣はされて來たやうに、ほぼイエスと同義の固有名詞として用ひてゐるのか、本義通り「油注がれたる者、王」といふ普通名詞として用ひてゐるのか、後者ならば作者は基督敎徒もしくはそれに準ずる聖典、敎義の理解者であらうし、句は、人閒イエスならぬメシアそのものに抱かれる法悅を暗示することとならう。(後略)

すなわち、「イエス」とは、「紀元前4年以前に、マリアの処女懐胎により、ユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育った者の固有名詞。後に制度化されたユダヤ教を批判。西暦30年頃エルサレムで十字架の刑に処せられ死亡。しかし、死後、復活したと伝えられたナザレのイエス」である。

そして、「キリスト」とは、名字・苗字や家族名(ファミリーネーム)などでは無く、「元来、油を塗られた者の意として、王に与えられた称号。ただし、紀元後1世紀には、この世の終末に現れる救世主(メシア)の意味になった」と理解しなければならない。

歌集『されど遊星』は、殊の外贅沢な歌集で、内容は、1973年(S48)重陽から1975年立春まで、約五百日間に発表した短歌に新作五十首を加えた三百首。これを七篇に再構成して、見開き二首、1ページにはたった一首だけを二行書きの大ポイントで凸版印刷したもので、文字が匂い顕つ花のように並べられている。
左右の短歌を関連付けて読めば、また違った味わいも湧き上がり、何度読み返しても飽きることがない物語が潜んでいる。

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『されど遊星』の見開きページ

さて、黄昏に咲くのは夕顔であるが、昼に咲いた「ひるがほ」が夕方まで咲いていたのを見つけたと短歌ではさらりと言っているが、「あやまちて」が、人にも花にも掛かっているところが塚本風といえよう。また、昼顔は、朝顔ほど大きくも鮮やかでも無く、朝から昼にかけて咲き夕方には萎むところが哀れでもある。

加えて、この歌を作ったころの「ひるがほ」には、カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画『昼顔』(1967年)の官能的イメージもあったはずである。

なお、アサガオならば自家受粉でも種子を作るが、ヒルガオは他の株の花粉がなければ種を得られないそうだ。

そして、生物学的には、
  アサガオ(朝顔)は、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ
  ヒルガオ(昼顔)は、ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ
  ユウガオ(夕顔)は、ウリ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ

似ているようでも、夕顔とはかなり別物である。はざまは厳しいと言うべきだろうか。

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『されど遊星』の表紙

『されど遊星』の装幀も、いつものように政田岑生であったが、この表紙挿絵がどこから引用されたのか気になって調べて見た。

イタリアのアレッツォにある「サン・フランチェスコ教会」のバッチ家礼拝堂、ピエロ・デッラ・フランチェスカによるフレスコ画『聖十字架伝説』(1452〜1466年)の右上、天井近くの預言者(エレミア or イザヤ)のイラストらしい。

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預言者「エゼキエル」(左)と 預言者「エレミア」(右)

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サン・フランチェスコ教会の『聖十字架伝説』など

サン・フランチェスコ教会のバッチ家礼拝堂

ただし、右上の預言者が「イザヤ(Isaiah)」か「エレミア(Jeremiah)」かは、美術史家の間でもまだ議論が続いており、画像だけでは特定が難しいとのこと。今はエレミア説が主流らしい。ピエロの時代のイタリア美術では、エレミアが預言者として頻繁に登場し、視覚的伝統が強いとのことだった。
なお、左上は、預言者「エゼキエル」。

私は、313年に、ミラノ勅令で、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世だと思っていたので、ちょっと残念であった。

  書  名:されど遊星
  編  者:塚本邦雄
  発  行:1975年6月20日(S50)
  発行所 :人文書院
  装  幀:政田岑生(まさだ きしお)

参考:
注1:油を注がれる
祝福として、王や祭司、預言者などの重要な人物を任命する際に、油を塗る儀式が行われていた。

注2:アレッツォのサン・フランチェスコ教会
サンフランチェスコ大聖堂は、イタリアのトスカーナ州アレッツォにある中世後期の教会で、アッシジの聖フランチェスコに捧げられている。
ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)によるフレスコ画『聖十字架の伝説』(Leggenda della Santa Croce)が描かれていることで特に有名。(Wiki)


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翡翠逍遥

  

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『翡翠逍遥』の表紙

米国の起業家、イーロン・マスク(Elon Musk、1971年生)は、宇宙輸送用ロケットを開発製造するスペースXを立ち上げ、火星に人類を移住させるプロジェクトを計画、推進している。

しかも、毎日のように打ち上げられる実験ロケットや実用衛星やStarshipについて、SNSの「x.com」に投稿される映像を見たり、人工知能「Grok」等の加速度的な発達を感じさせられると、火星への初飛行も間近に迫っているようにさえ思えて来る。

Elon Muskさんがリポスト
Dima Zeniuk @DimaZeniuk · 7月21日
“Every 2 years, we’ll try to get thousands of ships to Mars.”
— Elon Musk

Elon Muskさんがリポスト
SpaceX @SpaceX · 7月19日
Falcon 9 launches 24 @Starlink   satellites from California

Elon Muskさんがリポスト
Dima Zeniuk @DimaZeniuk · 7月18日
The long-term goal is to eventually terraform Mars
 ※ 注:terraform(〈惑星〉を人が住めるようにする, 地球化する)

湯川書房から1997年に発刊された塚本邦雄の『翡翠逍遥』は、彼の超有能な秘書的存在でもあった政田岑生(まさだ きしお)によって、1958年〜1976年頃に執筆された各種新聞、雑誌、機関誌への寄稿や句集、歌集への献呈文、果ては未発表文までもが網羅された貴重な書籍である。

例えば、その中の「卯月遠近法」は、朝日新聞の1976年4月に4回連載され、その3回目に上掲の短歌と文章が掲載されていた。

後年、塚本の第11歌集『閑雅空間』が発表されたときには、「からすむぎ」には漢字があてられ、

燕麥からすむぎ一ヘクタール 火星にもひとりのわれの坐する土あれ

と、訂正されている。朝日新聞の振仮名表記の制限で〈〉付きになるのを嫌い、わざとひらがな表記で発表したのであろう。

しかし、何より驚いたのは、1976年当時、国内旅行でさえ嫌っていた塚本が「火星移住」の夢など持っていたと書かれていた内容である。ほとほと地球の住み難さ、戦争や災害・飢饉・高湿度に愛想が尽きていたに違いない。

日本脱出したし・・・どころか、地球脱出したし・・・の思い幾許か?

ちなみに、1975年6月、人文書院から発行された第10歌集名は、『されど遊星』であった。

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『翡翠逍遥』の揮毫
(ほととぎすのみかわせみのこゑ蒼し)

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『翡翠逍遥』の帯、裏と表

  書  名:翡翠逍遥
  編  者:塚本邦雄
  発  行:1977年1月25日
  発行所 :湯川書房
  装釘者 :政田岑生(まさだ きしお)

参考:

注1:イーロン・マスク〔ウィキペディア〕
  南アフリカ共和国出身のアメリカ合衆国の起業家。(1971年6月28日 – )

注2:レイ・ブラッドベリ〔ウィキペディア〕
  アメリカ合衆国の小説家、詩人。(1920年8月22日 – 2012年6月5日) 


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世界に刺さった棘

  

俳句雑誌『蝶』を読み返しながら、一瞬身体が強張った感覚を覚えた。

蝶俳句会は、昭和51年、高知県で創刊。たむらちせいを師系として、今は味元昭次が同人代表を務め、同人・会員二百余名の隔月誌『蝶』を発行している。

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『俳句雑誌 蝶 第272号』表紙

代表の味元昭次には何度も会っている。しかし、2頁の表題エッセーを寄稿した著者の森下菊には面識もなく、「蝶の俳人(同人)」以外の知識はない。

もう少し引用してみよう。

日本赤軍事件やパレスチナ開放闘争にかかわった奥平剛士と房子のことは、21年間の服役中に発表した第一歌集『ジャスミンを銃口に』(2005)を読み、記憶に残っている。

重信は、ハーグ事件(1974年、同志奪還のためにオランダのデン・ハーグのフランス大使館を占拠、シリアに逃亡した事件)への関与により国際指名手配され、2000年大阪で逮捕された。その後、裁判で懲役20年が確定し、2022年5月28日、刑期満了で出所している。
また、奥平は、リッダ事件(1972年、テルアビブ空港乱射事件)に加わり射殺されている。

銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君
爆音と共にまかれし投降のすすめのビラに絵をかく子らよ
飛んでゆけ こぼれし種子の吾亦紅獄から放つ力の限り

第一歌集から、私のノートには10首ほどの歌を書き残していた。

まだ第二歌集の『暁の星』(2022)は読んでいない。しかし、「人を殺せし人の真心」のフレーズを読んだだけで、胸の奥が騒立つ。

森下もまた、ナクバと聞いただけで、炎だつのかも知れない。

この遣るせない思いは、自分の無力さも自覚させるのだが、米国やロシアの大統領ほどの権力を持っていたとしても、正義の反対もまた正義である限り、永遠に果てしない殺掠が続くように思えて哀しい。
また、大英帝国の陰の権力者や政治家たちの、無慈悲な約束も忘れてはならない。

  書  名:俳句雑誌 蝶 第272号
  同人代表:味元昭次(みもと・しょうじ)
  発  行:2025年3月10日(2025.3.4月号)
  発行所 :蝶俳句会
  表  紙:森下 颯

参考:

注1:ナクバ (nakuba)〔アラビア語で大厄災のこと〕
 1948年のイスラエル建国とパレスチナ難民の発生をパレスチナ側からいう語。

注2:リッダ事件、テルアビブ空港乱射事件
 テルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港で発生。
 1972年、ロッド空港乱射事件、リッダ闘争(リッダはロッドの現地読み)


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源氏の明石

わたくしの手元にある文庫版『源氏五十四帖題詠』の扉には、塚本自筆の「ともしびの明石」の歌一首と「邦」の朱肉白文の落款印、そして著者名のサインが入っている。

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『源氏五十四帖題詠』表紙

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扉、塚本邦雄の短歌と印、サイン

20年も前の事ゆえ、どうやってこの文庫本を入手したのか、すっかり忘れてしまった。

扉の短歌の「聴く琵琶の」あたりが少し読みづらく、流麗な塚本らしくないと思った。しかし、ルーペで確認すると、愛用の極細書き万年筆を半回転させ、背を下にして書いていたペン先の筆圧が紙に残っているところなど、いつもながらに、と懐かしく思い出された。

発行は2002年10月、すなわち塚本82歳の頃。2005年6月の逝去を思えば、入退院や治療もあり、時間を惜しみつつペンを取っていたのではと推察される。

さて、この本には、紫式部が源氏のために作った物語と和歌に協奏するように、各帖の冒頭に塚本の新作短歌五十四首が添えられ、古典を愉しみつつ、その時々の知識が新訳を読むかのごとく理解できるよう配慮された珠玉のエッセーがそえられている。

明石の帖には、もちろん「ともしびの明石に泊てて」の歌が、

と並べて掲げてある。物語の内容、明石の入道が舟を差し向けて迎えにきたくだりや、入道の琵琶に和して、光源氏が久々にきんを袋から取り出し、秘曲「広陵散くわうりょうさん」を披露したところを一首に巧みに織り込み、最後を「夜のわたつみ」と雅やかに静かに締めるあたり、何度読んでも惚れ惚れする。

この「わたつみ」のひらがな書きも、「海(うみ)」と「海神(わたつみ)」の両方がイメージできるようにとの配慮であろう。

そして、今一首、「明石の浦」から

を、紹介するあたり、普通の源氏物語の訳本では到底あらわせない。

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本文 58-59P (左端に定家の歌)

日本の和歌史と歌を知り尽くし、24歳の定家が、1186年6月頃、西行の勧進による『二見浦ふたみのうら百首』の中に、源氏・明石の章句を引いて制作したものと、源氏200年後の経緯まで解説した面白さがある。

また、塚本邦雄といえば前衛短歌の領袖である。
その彼が、前衛・現代調を抑え、それぞれの物語に相応しい短歌を創作したところも堪能したい。1983年発行、冨山房百科文庫の『塚本邦雄撰 清唱千首』の古典鑑賞力などがあってこその名著であろう。

  書 名:源氏五十四帖題詠 
  著 者:塚本邦雄(つかもと・くにを)
  発 行:2002年10月9日(第一刷発行)
  発行所:筑摩書房 ちくま学芸文庫
  カバーデザイン:熊谷博人
  ISBN4-480-08717-6

参考:

注1:『源氏物語 明石』紫式部 「與謝野晶子訳」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5028_11650.html


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モネの藤

  

橋本麻里はしもとまりについては、週刊文春に記載された肩書の金沢工業大学客員教授よりもWikiの「日本のライター、編集者」のほうが相応しいと思う。これまでにも、いろんな雑誌や書籍の文章に注目してきた。

今回は、『週刊文春』連載の「東洋美術逍遥・80」において、《モネと円山応挙、それぞれの「藤」》と題して、印象派のモネの展覧会(京都展)での気付きについて考察していた。

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『週刊文春』の「東洋美術逍遥・80」部分(2025年4月17日号)

私も、モネの「睡蓮」の絵画をこれまでに何作も見てきたが、「藤」と名付けられた作品が2点来ていたとは知らなかった。橋本の記事を読み、改めて調べて見ると、

日テレ制作の開催案内『モネ 睡蓮のとき』「第2章、水と花々の装飾」において、
マルモッタン・モネ美術館から来訪の習作「藤」(no.6、no.7)の画像も知ることができた。制作は1919-1920頃、油彩、100x300cm。実に横長で大きい。

モネの習作 no.6「藤」と日テレ解説を引用

しかし、この2点から、円山応挙の《藤花図》屏風を連想するところが、橋本麻里の視点の面白さでもある。やや強引に「東洋美術」に結びつけようとしたのかも知れないが、画風や藤の枝振りは全く違う。円山応挙の《藤花図》は、もっと大胆な構図でより装飾的であり、視力の衰えたモネよりも鮮明に細部まで描かれている。

それでも、睡蓮の上部に垂れ下がった藤の空間をイメージできたとしたら、まさにモネが晩年を過ごした自邸の「ジヴェルニーの庭」にかかった緑の太鼓橋(Japanese Bridge)の藤棚を思い出せるだろう。

実は、高知県東部にも「モネの庭」と名付けられた施設が2000年4月にオープン。本家「ジヴェルニーの庭」を模した造園整備を行い、すでに、25年周年を迎えている。
なお、庭の名称は、開園前にフランス本国のアルノー・ドートリヴ氏より『 Jardin de Monet Marmottan au Village de Kitagawa(和訳名:北川村「モネの庭」マルモッタン)』として使用許可も得ている。

https://www.kjmonet.jp

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北川村「モネの庭」の睡蓮と太鼓橋

北川村「モネの庭」の藤棚

一晩、寝返りを打ちながらモネの「藤」についてあれこれ考えていると、急に正岡子規の『墨汁一滴』の短歌が思い出された。新聞「日本」に連載された随筆の4月28日(1901年)の記事中、子規の亡くなる1年半ほど前のものであった。

かめにさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり  子規

  書 名:『週刊文春』
  発 行:2025年4月17日
  発 売:2025年4月10日
  発行所:文藝春秋

注:橋本麻里/1972年、神奈川県生まれ。
  金沢工業大学客員教授。最新刊『かざる日本』(2021.12)が好評発売中。


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