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おぼろげな白い光

  

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冬野虹句集『雪予報』表紙

いつも思うのだが、ある種の人間は、生まれながらに持った感性の鋭さを成長しても忘れない。それは、痛みを伴うほどの感性でもあるのだが、予知能力とも呼べそうな独特の詩心を内に秘め、おぼろげな白い光を発する心と領域をもつ人が確かに存在する。

言葉だけでは表せないナニモノかを、身振り、手振り、表情・・・全身で伝えてくれようとするのだが、なかなか理解できないもどかしさに、こちらが恥ずかしさを感じさせられることもある。

例えば、大阪生まれの冬野虹には、関西独特のイントネーションと考えがちに喋るゆったりとした間合いがあり、白い光と共に、あこがれを抱かせる詩情の持ち主でもあった。

掲句は、私が作句を初める以前の、鷹1979年6月号の一句。

「花眩暈」には、振り仮名が無い。きっと「はなめまひ」と読むのだろう。
「めまい」にも「目眩」ではなく、「げんうん」の漢字が当てられいるところなど、言葉選びの巧みさを窺わせる。

そして、「わがなきがらを抱きしめむ」のフレーズは、詩心を持つ俳人に、前触れもなく、すっと天から降りてきたようなイメージと言葉。

花の咲くには早い季節。しかし、見上げれば満開の薄墨色の桜が空を覆い、かすかな匂いが微風に漂う。一瞬の眩暈。愛し合い、二人で生きると約束したはずなのに、まるで王子が、白鳥の亡骸を抱くように「わがなきがらを抱きしめむ」と予言する。二人で逝くのではなく、一人は生きると。
冬野虹には、白いイメージがふさわしい。

言葉をあつかう人間は気をつけなければならない。明確なイメージが、しっかりした言葉に置き換えられると、未来にそのイメージが実現しやすいのだと。それが悪魔の呪文であったとしても。

冬野虹の句は、ふらんす堂のオンラインで読む『鷹俳句会 季語別鷹俳句集』を検索してみると12句掲載されている。これは、鷹俳句会に入り、会員、同人として藤田湘子の選を毎月受けた中から、特に優れた句として賞賛された記録ともいえる。しかも、その中では、掲載年が最も古かった。

鷹入会は1978年(S53)。それから1年、藤田湘子が見出した才能あふれる一句として選ばれ、褒められたことだろう。

私の手元にある冬野 虹 句集『雪予報』を開けば、1977年から1987
年までの11年間の俳句が並ぶ。

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『雪予報』虹の後記

私自身のためにも、心に残る11句を書き写しておく。

三月や麒麟の夢を指にまき        24P
解剖室ではクレソンがのびてゐる     41P  S51. 1
生まれなさいパンジーの森くらくして   48P
菊の露ふれあふ音の端に居り       67P  S57.11
はるのすな君あらあらし我かすか     68P  S58. 3
すべりおちる白い芙蓉のはなのふち    74P
十二人こはかつたのとコーラ飲む     79P
絵双六野になみうつてゐるマリア     97P
自動ドアわなわなひらく雪予報     110P
雪の香やとぢこめられるノンの声     117P
かなぶんぶんロングスカートでゆくわ  128P

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『雪予報』出版情報

1984年 5月、鷹俳句会で知り合った「四ツ谷 龍」と神戸へ転居
1986年12月、鷹俳句会退会
1987年 3月、龍と結婚
1987年 9月、龍と虹の二人文芸誌「むしめがね」を創刊
1988年頃から1年ほど、二人で塚本邦雄の文学講義を京都で聴講

この当時、短歌の玲瓏会員でもあった私のために、四ッ谷龍が録音した塚本の聴講テープを2本ダビングして郵送してくれた。

また、何処かの「歌曲歌詞コンクール」に、冬野虹の作詞『あした りすに』が受賞して発表会があったそうで、男性テノール歌手が歌った歌曲のテープも頂いたのだが、今思えば、虹の声が入っていなかったのが残念でならない。

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歌曲録音テープ『あした りすに』

    あした りすに

           作詞:冬野 虹

  りすに会ったむすめ
  鎌倉の庭 お寺の庭
  手袋をはずしてごらん
  走るりす

  見上げた枝に 高い梢に
  空は今ちらばり
  新月の ぬばたまの 闇は唄う
  鎌倉の鐘は響く

  鐘のそらへ 散りゆき
  星はもどるよ もどるよ
  手袋をはずしてごらん あした

2002年2月、自宅にて急逝。
いつまでも白い星となり輝きますように!

 

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2025.10.22

  書  名:句集『雪予報』
  著  者:冬野 虹(ふゆの にじ)
  発  行:1988年8月11日(S63)
  発行所 :沖積舎

参考:
注1:むしめがね
俳句、短歌、文学、現代美術のページ
https://www.big.or.jp/~loupe/


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漆黒のサングラス

 

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句集『流砂』の函と帯

ギリシャ神話に登場する西風の神ゼフュロスに吹かれ、海の泡からうまれたヴィーナスは、恥じらいながら帆立貝の貝殻に乗ってキプロス島に上陸したという。

同じ二枚貝の一種である「月日貝」は、ほぼ円形で手の平サイズ。上下に開き、その殻の色彩には際立った特徴がある。

もちろん、水を噴射して泳ぐのも得意だが、細砂の海底に棲息し、底に接する面の貝殻は仄白く(アイボリー調)、もう一面の貝殻は赤褐色である。まさに裏が月、表が太陽(日)に見えるところから「ツキヒガイ」と名付けられた。

鹿児島なら9月から漁が解禁され、次年の3月末まで漁と出荷が続けられる。北陸では漁期も違うだろうし、俳句の季語としては、秋と言うべきか、冬と言うべきか、まだ定かではない。

しかし、掲句では、なぜか春を待つ大寒の頃に思える。
人を憶うとは、それほど厳しくせつないものなのだ。

作者、光部美千代(こうべ みちよ)は、1957年(S.32)福井市生まれ。
7歳からバイオリンを習い、信州大学人文学部卒。
学生オーケストラや市民交響楽団などに所属していたようだ。

1991年 「鷹」入会、主宰、藤田湘子
1993年  第21回 鷹新人賞 受賞
1995年  第30回 鷹俳句賞 受賞
2002年  句集『色無限』(朝日新聞社)上梓

鷹俳句会の誌上への登場は目覚ましく、入会後、瞬く間に新人賞、鷹俳句賞を受賞して脚光を浴び、私達の心に残る作品を発表してきた。

1992年(H4.9) とどまるは穢るるごとし草いきれ 美千代
1994年(H6.8) 日本に目借時ありセナ爆死    美千代

言葉や感覚の厳しさから、かなりの潔癖症と思っていたのだが、会ってみるとそれほどでもなく、言葉を選びながらたどたどしく会話したような記憶や笑顔がチャーミングだった印象も残っている。

ただ、その当時、鷹に福井県から投句する作者がいなかったせいで、新年会や同人総会で会っても、群れを作らない孤高の存在ではあった。

2000年7月に、鷹全国大会四国地区松山が開催された翌日の吟行会で、漆黒のサングラス姿で、たった一人真正面を向いて歩いている姿を見た時は、声を掛けるのも何だか憚られ、連衆を必要とする俳句とは言え、創作活動にはそれなりの厳しさが必要なのだと思い知らされた。

大病により鷹退会後、2011年「汀」入会
2012年(H24.05.18)永眠

処女句集『色無限』につぐ、第二句集『流砂』は、光部美千代の死後、ご遺族の意思により、「汀」主宰の井上弘美や仲間達によって纏められ、2013年に出版された。

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句集『流砂』の函と表紙

  

『流砂』の帯文は、鷹主宰の小川軽舟。

もう会えないと思っていた光部さんにこの句集でまた会うことができた。
その喜びで私の胸はいっぱいだ。
 風花やいづこまで夢運ばるる  美千代
病気を理由に「鷹」を離れた光部さんの夢は生まれたての「汀」に運ばれて最後の花を咲かせていた。藤田湘子に見出されたその天稟が惜しみなく薫るなつかしい句集である。   小川軽舟

句集『流砂』より、私の印象に残る句を書き写しておく。

Ⅰ 桐の花  (鷹時代、 2000年、H12秋以降)
亡き星の光さしこむ蝸牛      H14鷹7月号
死に余りたりかなぶんのうしろ羽  H14鷹11月号
隣る世の音もまじりて滝落つる   H15鷹9月号
十六夜の男の影を踏みにけり    H16鷹1月号

Ⅱ 紫雲英  (鷹時代)
狂ひしにあらねど薔薇のサラダかな H16.8/9合併号
妻よりもさびしき鮎の落ちにけり  H16.12月号
ふらここは静止僕らはもうゐない  H17.5/6合併号
春眠の覚め際痛きひとりかな
春潮は胸の高さや逢ひたかり
緑さす吾子生誕日師逝けり

Ⅲ 藤    (鷹時代)
億年といふ骨片のあたたかし
まつすぐにひとを憶へり月日貝
豊年や火傷しさうなオートバイ
降る雪や人界にあるけもの径

Ⅳ さくら  (鷹時代、最後はH24年3月まで)
わが反旗夏シャツに腕通したる
椅子の背に崩れし上着鳥渡る
背筋叩きて卒業の立姿
菜の花や人になつく子さみしい子
ちちろ鳴く棚にこどものバイオリン

Ⅴ 椿    (制作年不明、春と夏の句)
春寒し夢の覚め際痛くあり
ゆつくりと春塵の降る海の底
今生もしだれざくらの端にをり
うつし世に我を佇たしめ花ふぶく
母に貸す本選びをり麦の秋

Ⅵ 冬薔薇  (制作年不明、秋と冬の句)
雪起こし天命未だ生かされて
しばらくは我を容れざる初景色
冬霧の中を日の行く訣れかな

Ⅶ 桃の花  (汀、掲載句)
秋の蝶ブレーキゆるく踏みにけり
鳥渡る流砂の研げるガラス片
吊革に釣瓶落しの手首あり
炭火美し命削りし秘中の秘
宙に寝る夢のつづきを鞦韆に
口中に氷噛み砕く春のくれ
野を焼きて明日疑ふこともなく

心に残る「跋文」は、汀主宰の井上弘美がしたためている。
機会あれば句集を手にとって読んで頂きたい。

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『流砂』最期の俳句と跋文の書出し

        跋
 
  鳥渡る流砂の研げるガラス片
  
(書出し省略)
美千代さんは湘子先生が亡くなられた後、大病を患って「鷹」を退会。福井で仲間とともに俳句を続けていたのだが、作品発表の場を持たない美千代さんを励ましたいと、ある方が紹介してくださったのだった。「汀」創刊の直前のことである。(以下、省略)

  

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気温30℃

  書  名:句集 流砂 りゅうさ
  著  者:光部美千代
  発  行:2013年5月17日(H25) 初版発行
  発行所 :ふらんす堂
  装  幀:君嶋真理子

参考:
注1:光部美千代句集『流砂』(りゅうさ)
https://furansudo.ocnk.net/product/1911
https://fragie.exblog.jp/19791386/

注2:井上弘美
井上 弘美(いのうえ ひろみ、1953年5月26日 – )は、俳人。 人物・来歴. 編集 · 京都府生まれ。1984年関戸靖子に師事。1988年「泉」入会、綾部仁喜に師事。2012年「汀」創刊主宰(Wiki)


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紀のくに

  
1980年(S55)作。

阿部完市(あべかんいち)は、1928年(S3.01.25)生まれの俳人。
本名、與巳(よしみ)。精神科医。
昭和27年より日野草城の「青玄」に投句。
昭和37年、金子兜太に会い「海程」4号より入会。昭和49年「海程」編集長。2009年(H21.02.19)逝去。

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句集『純白諸事』の表紙

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『純白諸事』掲載写真(部分)と自筆サイン

「紀の国」と言えば、紀州和歌山を指しているのは当然だが、「紀の国和歌山」と書くと字面が悪く認識力が落ちるため、「紀のくに和歌山」と「くに」をわざと仮名書にすることがある。

そして、「黃のくに」と読むと、黄色の好きな私には、温州うんしゅうみかんよりやや小さい紀州みかんのイメージが広がり、元禄年間に、みかんを江戸へ船で運び財を成した「紀伊國屋文󠄁左衞門きのくにやぶんざえもん」の話まで思い出される。

また、和歌山県は、古くから「木の国」とも呼ばれ林業が盛んであった。古くは、法隆寺の五重塔やその他の神社仏閣建築への用材として、そして、中世・近世では城閣建築にも紀伊山地の檜や杉が利用されたはずである。

ちなみに、「紀州の川」なら、有吉佐和子の小説では『紀ノ川』となっていたが、誰が考えても和歌山県を流れる一級河川「紀の川」が思い浮かぶに違いない。
さらに、「黃の川」なら、中国の「黄河」や「黄泉(よみ)の国」へも連想が広がる。

「キノクニノヒトトコグナリ」とは、もちろん舟を漕ぐのだろうが、現実の舟やボート、レガッタと言うより、私には夢うつつで漕ぐ空想の舟に思えて仕方がない。人は黄泉還り(蘇り)のために、鬼神や鬼人と共に、あの世からこの世へ川を渡ってきたのかもしれない。

精神科医でもあった阿部完市は、31歳で、LSD25、ガンマ皮下注射をして、その症状を自己観察。同時に俳句を作るという実験も行ったことでも知られている。
幻覚症状下において、言葉ならざる色や光や匂いは、どれほどの空間を歪め、自分の自我や良心の抵抗感を取払い幻覚や幻想を広げたことだろう。

私がある経験者に聞いた話では、映像や聴覚だけでなく、なぜか始終笑いが止まらなかったとも語っていた。しかも、何が可笑しいのか、後から考えても全くその原因には思い至らなかったというのだから不思議である。危険な薬物の乱用には気をつけよう。

句集『純白諸事』には、昭和53年から57年まで、5年間の俳句、300句が収録されている。
そして、後ろに、1980年(S55)の「訪中小記」なる旅行記が転載され、大野林火を団長とした「俳人協会・現代俳句協会の公式訪中団」(21名)に参加したことも記録されている。

短い「あとがき」の全文を引用紹介する。

 「かわらなければ」という思いと、「否、このまま真直ぐゆかねば」という、両方の思いの間でいらいらしたこの四、五年―その期間の三〇〇句。
  
 俳句というものは、奇妙にして妖しい生きもので、芭蕉も、蕪村も、一茶も、虚子も、今の俳人も、それぞれに何となく書かされている――という実感が最近とくにつよい。
  
 私も、そんな一人なのかと、「純白諸事」三〇〇句を調えながら思った。

  

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気温33℃

  書  名:純白諸事(現代俳句の100冊 シリーズ12)
  編  者:阿部完市
  発  行:1982年10月20日(S57)
  発行所 :現代俳句協会

参考:
注1:阿部完市
俳人、精神科医。 東京生まれ。金沢医科大学付属医学専門部卒。1950年より勤務先の病院の俳句グループで作句をはじめる。1951年、日野草城の「青玄」入会、1952年西村白雲郷の「未完」入会、1953年高柳重信の「俳句評論」入会。1962年、金子兜太の「海程」4号より入会、同人。
現代俳句協会では1997年から2008年まで副会長。(Wiki)

注2:LSD(薬物)
リゼルグ酸ジエチルアミドまたはリゼルギン酸ジエチルアミド(英: lysergic acid diethylamide)は、非常に強烈な作用を有する半合成の幻覚剤である。
開発時のリゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質であったことからLSD-25とも略される。(Wiki)

注2:訪中小記
「俳句研究」昭和55年8月号より転載


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地平に立って

  

軽舟主宰(以下、軽舟)の句の中で最も好きな句である。
茶席の本席の床には禅僧の一行物が好まれるが、この俳句が大書された軸を拝見したい。弘法大師・空海の結界、両界曼荼羅の伽藍配置。そして、春月は、太陽系・大宇宙へと遡り、ビッグバン以前の無窮世界へと連想が広がる。
軽舟は「この句を短冊に書くのは気分がよい」と述べている。すらすらと書くさまが見えるようである。俳句を志し、生涯に短冊に書ける句が十句も持てれば幸いであろう。

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自註現代俳句シリーズ 小川軽舟集

さて、『小川軽舟集』のあとがきによれば、「これまで出した句集『近所』『手帖』『呼鈴』『朝晩』『無辺』五冊から六十句ずつ、計三百句を選んで自註を付した」とあった。

三百句と決めた時、五句集から平等に六十句ずつ選べるだ ろうか。常人はその出来栄えを勘案して若書きを減らし、最新句集からが多くなるだろう。軽舟が、律儀に自制心をもって選び終えたことにまず驚きをおぼえた。また、三行書き、 六十六文字以内の自註が実に簡潔。これは、効率的に、合理的に、心情を断ち切る強さが無ければできない。

  霾るや星斗赤爛せしめつつ     昭和六三年
小川軽舟を意識した初巻頭句である。名前が俳号であることはすぐ察知できる。しかし、「軽舟」と自称するなど、かなり年配と思っていたら、びっくりするほど若く、東大法学部卒の俊英と知れば、二度びっくり。俳句で「星斗赤爛」など、よほど語彙が豊富でなければ思いつかないだろう。

芭蕉の「物の見えたる、光いまだ心に消えざる中にいひとむべし」とばかりに、よなぐもりにより北極星や北斗七星が 赤らんで見えるさまを「せしめつつ」と押し込んでくる。
藤田湘子しょうしが漢語を使えと教えた時期と重なるかも知れないが、ただ事ならざる記憶力と造語力の持主に違いない。 

  五分後の地球も青しあめんばう    平成一六年

昭和三十六年、軽舟が生まれた二ヶ月後、人類初の宇宙飛行士ガガーリン少佐が「地球は青かった」の名言を残した。
カラーテレビ普及前、ニュース映像もモノクロだった。はて、この五分後はどこから来たのだろう。地球終焉までの腕時計の五分単位の文字盤だろうか。「あめんばう」は、湘子の「あめんぼと雨とあめんぼと雨と」の句を意識しつつ、あめと地球が響き合う。五分後もその後も、人間世界の終りが来ても、地球は在り続けると信じているに違いない。
彼の視点は宇宙から地球へ降り、一匹の虫たちへも、生死を超えて見届けようとする地平に立っている。

(以上、鷹掲載原稿より抜粋)

小川軽舟集の奥付

注:少し長いため、「縦書原稿全文」をPDF形式で LINKしました。

鷹2025年5月号「地平に立って」p28-29
『自註現代俳句シリーズ 小川軽舟集』書評 縦書原稿


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湘子の考え

  

4月15日は、俳人・藤田湘子の命日である。

25年間も師事した我が身、少しでも多くの人に日本語や俳句を愛した湘子の考えを理解してもらえればと願う。

そこで思いついて、古い俳句雑誌『鷹』を取り出し、逝去前後の記事を探してみた。毎月5日発行(会員には10日前に届く)の鷹誌には、湘子主宰の「新作俳句12句」、連載エッセイ「句帳の余白」、湘子選「推薦30句」、選評「秀句の風景」、編集室の「コラム」が定位置になっている。

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『鷹』の表紙(2005年4月号)

この中で、連載エッセイは、昭和61年から平成13年末までの約200篇の中から81篇を自選して、『句帳の余白』の題名で、すでに角川書店から出版されている。

しかし、それ以後のエッセイについては、まとめた本が無く、鷹会員や贈呈された者でなければ目に触れる機会さえ無かったはずである。

故人の著作権は、ご遺族にあると承知しているが、逝去2ヶ月前に書いたと思われる最期のエッセイから、先師の人となりを想像してもらいたい。

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『鷹』の「句帳の余白」(2005年4月号)
(画像は、クリックすると拡大します)

若者には古いと言われるかも知れないが、やはり歌手の歌唱力以前に、詩に曲を付けるときも、曲に歌詞を付けるときも、美しい日本語の発音を無視しないでもらいたいと思う。テレビ画面の文字の多さにも辟易するが、歌詞が出なければ何と歌っているのかさえ分からないようでは、あまりにも惨めである。

無闇に流されるBGMを反省して、ラジオから流れてくる音や曲、歌声に耳をそばだてたくなるような、そんな生活を送りたいと思う。

  書 名:鷹 
  発行人:藤田湘子
  発 行:平成17年4月5日(2005年)
  発行所:鷹俳句会

注:藤田 湘子しょうし(男性、1926.01.11 – 2005.04.15)は日本の俳人。水原秋櫻子しゅうおうしに師事。俳誌「鷹」を創刊・主宰。


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