言葉」カテゴリーアーカイブ

全力否定

  

KADOKAWAの雑誌『短歌』2025年3月号、特集「高校生短歌はいま」より引用。今回、全国高校文芸部にアンケート調査を行い、35校の回答を掲載とのこと。各校3首ずつ、つまり105首の中から、私が最も心惹かれたのは、畠山慎平の「飛び込んで」であった。

Tanka20250412.jpg

『短歌』3月号(表紙部分)

ちなみに、作者は宮城県気仙沼高等学校 文芸部部長。

この一首から、スポーツの高飛び込みというより、一般的な水泳競技のスタートを思い浮かべたが、私は水泳が苦手である。それでも、飛び込んだ瞬間の勢いや自分の身体を押し返そうとしてくる水の圧力、透明感、スピード、水泡の動きが眼に見えるようで充分満足できた。

「私を全力で否定してくる」のは、水圧ばかりではなく、自分の通う学校、社会、世界にも通じるものであり、「水泡」が輝けば輝くほど抵抗は大きくなるのだが、それらもまた飛び込んで体験しなければ、如何ほどのものか身を持って感じることもできないのである。

声を出して読み上げれば、二度繰り返される「で」が無ければとやや気になったのだが、それでも今の高校生短歌として残しておきたい。
そして、最近多くなった「全力否定」も、こんな使い方なら面白い。

枝垂桜

染井吉野はもう見頃を過ぎたが、枝垂桜は今しばらく咲いている。

  書 名:総合雑誌『短歌』3月号
  発 行:2025年(R7) 2月25日
  編集人:北田智広
  発行所:角川文化振興財団
  販 売:KADOKAWA


saten_logo80s.jpg

遺伝子を残す

  

俳句入門書のシリーズの一冊、『鳥獣の一句』の解説部分を引用した。
1月1日から12月31日まで365句。鳥や獣や虫など、生き物に関連した他人の俳句を毎日一句取り上げ、どの句にも実にワクワクさせる解釈を披露していて、ページをめくるごとに心ふるえるひと時をすごすことができる。生き物とその背景(学識、伝説、宇宙感)がほんとに好きなんだな~と感心させられる。

Okuzaka20250411.jpg

365日入門シリーズ⑧ 『鳥獣の一句』

もちろん、奥坂まやは俳人であり、DNAの研究者では無いが、これまでに得た知見からストーリーを組み立て、一句の俳句の世界をこれでもかと謂わんばかりに押し広げ、新しい宇宙を感じさせ、なおかつ、俳句作者の頭上に冠を被せ祝福するがごとく賛辞も送っている。

後半を省略した解説の続きを、もう少し披露したいところだが、図書館や古書店、通販(まだ入手可能)で実物の書籍を手に入れ言葉の媚薬を味わってもらいたい。

さて、「4月15日」のページで解説されているこの俳句は何だろう。
つまり、俳句上級者には、一句の解説を読んでから該当俳句思い出すといった遊びにも使える。ヒントは、季語「百千鳥ももちどり」(春)である。
もうひとつヒントは、と問われれば、作者は「飯田龍太いいだりゅうた」である。

答えは、

雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)、囃す(はやす)の漢字が読めなかったという人がいるかも知れない。しかし、辞書や電子辞書を引き、慣れるのが一番。

ベランダのブルーベリーの花が咲き始めた。毎年、花の蕾を狙って小鳥がやって来て騒がしいのだが、一雨過ぎたら受粉を手伝ってやろうと思う。

BlueBe20250411.jpg

ブルーベリーの花

  書 名:365日入門シリーズ⑧ 『鳥獣の一句』
  発 行:2014年(S54) 2月4日
  著 者:奥坂まや
  発行所:ふらんす堂

  ブログ記事(ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko)
  LINK:https://fragie.exblog.jp/21389653/


saten_logo80s.jpg

素十の俳句

  

高野素十(たかのすじゅう)は、1893年(M26.03.03)生まれの男性。
本名、與巳(よしみ)。医師。俳人。
高濱虛子に、大正12年より師事。山口誓子、阿波野青畝、水原秋櫻子とともに「ホトトギス」の四Sと称された。「芹」主宰。1976年(S51.10.04)逝去。

Keage20250409a.jpg

蹴上インクラインの桜

私は、数年前の4月、京都の蹴上インクラインの桜を見に行ったことがある。
石垣に沿って満開の桜並木を見上げながら歩いていると、急に一陣の風が吹き上がり、桜の花びらが宙に舞い、瞬く間に先行く人が見えなくなるほどであった。

その時、この句が思い出され、なるほど「一かたまりの花吹雪」とは、これほど風に乗って飛ばされるものなのかと驚いた記憶がある。

素十の俳句は、ほとんど説明や解説がいらない。見たままを素直に、そのまま飾らず言葉にしている。どこかで、この句は吉野での作と聞いたことがあるが、吉野に限らず日本中、いや世界中どこであっても通用するのではなかろうか。

一句の中には、桜のことしか書かれていない。一物俳句いちぶつはいくの見本のような句である。真似しろと言っても、簡単にできそうで出来ない。究極の俳句とも言えよう。
このような句を、一生かけて一句でも残してみたいものである。

Sujyu20250409b.jpg

素十全句集

『素十全句集』は、春1344句、夏1658句、秋1455句、冬・新年1135句の四冊に別れた文庫版サイズ。季節ごとに分かれているので携帯には便利なのだが、すべての季題別索引が「冬・新年」の分冊にしか無いのが残念。
句集の帯に、「俳句の道は、ただ、これ、写生。これ、ただ、写生。」と素十の言葉が輝いている。

  書 名:素十全句集
  発 行:1979年(S54) 12月20日
  著 者:高野素十
  発行所:永田書房


ドラゴンボール

  

著者は、1986年(S61)生まれの女性。
現在「鷹俳句会」同人。2021年「鷹新人賞」受賞。俳人協会会員。
あとがきによれば、2002(H14)年から、高校の部活動で句作開始とあった。

漫画のドラゴンボールでは無いが、古来、彫刻・絵画に好んで描かれる龍には、パワーを秘めた宝珠を持つものがいた。とりわけ五爪龍天珠が最も尊く、中国皇帝の象徴のようなもの。しかも、その宝珠を手放し、我欲・執着を捨てなければ解脱できないとも教えられている。

掲句は、「龍の玉」ならぬ「竜の卵」。人間の記憶遺伝子に刻み込まれた「恐竜の卵」のイメージも浮かび上がる。

そして、下五には「拾ひけり」と自分の動きが示されている。しかし、竜ならば駝鳥の卵よりは何十倍も大きく目方もあるはず。一瞬、そんなものが軽々と簡単に持ち上がるのかと心配になったが、夢なら許そう。

年頃の女性が「竜の卵」を夢に見たなら、「龍や馬」が体内に飛び込む如く、開運の天子を授かるのかもしれない。

Takeoka20250408a.jpg

初夢に・・・ 佐緒理

俳句は縦書でなければ・・・と思うのだが、
WordPressのブログでは、色々な制約があって難しい。
ルビさえも、ブロックごとに、いちいちHTMLエディター形式に切替えて編集と聞けば、思考が中断するので躊躇ちゅうちょする。従って、必要最少限で利用している。
もっと手軽に使える「縦書き専用無料ブログ」があればいいのに・・・と、いつも思う。

Takeoka20250408b.jpg

竹岡佐緒理句集『帰る場所』

竹岡佐緒理句集『帰る場所』より、好みの俳句を抜粋する。

句集の裏表紙の帯には、作者の自選十句も発表されていた。
しかし、私の選とは一句しか重なっていなかった。

Takeoka20250408c.jpg

竹岡佐緒理句集『帰る場所』 自選十句

  書 名:帰る場所 竹岡佐緒理句集
  発 行:2025年 1月21日 初版発行
  著 者:竹岡佐緒理
  発行所:ふらんす堂


女の心情になりきる

  

古今和歌集に収載された作者は、凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)。

Mitsune20250407a.jpg

わがやどの・・・(寸松庵色紙)

Mitsune20250407b.jpg

凡河内躬恒「三十六歌仙額」(狩野探幽 画)

たとえば、百人一首の「心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花 みつね」でも暗記していなければ、この作者名が読めないのでは無かろうか。三十六歌仙のひとりでもある。

凡河内躬恒(859頃生~925頃没)は、平安時代前期の宮廷官僚。優れた歌人でもあった。宇多天皇、醍醐天皇に仕えて勅撰の『古今和歌集』選者に任じられ、紀貫之・紀友則・壬生忠岑などと共に編纂にあたった。撰者の特権か、躬恒の歌は貫之に次いで多く六十首も選ばれている。

桜の花の咲く頃になると、私はこの歌をよく思い出す。

ところが、かつて読んだ『日本古典文学全集』(小学館)の口語訳や鑑賞批評を信じたために、うっかり作者の意図や歌意を見逃していたようである。           (あるいは、校注・訳の小沢正夫氏のデリケートな配慮?)

例えば、『土佐日記』で有名な紀貫之は、承平四年(934)、土佐守としての四年の任期を終え、京へと旅立つ。その舟旅の事情を記録した日記を「男もすなる 日記といふものを 女もしてみむとてするなり」と偽って、男性官僚でありながら漢字を使わず「仮名書き」にしたことが有名である。

Sakura20250407c.jpg

高知城と桜(2025.04.04 撮影)

凡河内躬恒も、この歌では女の心情になりきり、「久しく訪れてくれなかった思い人が、我が家の庭の桜を見に来たよといって一夜を過ごし、もう帰ってしまった。花が散ってしまった後(私の容姿も歳とともに衰える)は、もう来てくれないかもしれない。次はいつ来てくれるのだろう。」と、物語風に、当時の妻問婚の有り様を花に重ねて歌合で披露したのでは無かろうか。