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アデーレ『HIROSHIGE』

  

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『歌川広重 HIROSHIGE』 表紙

一冊の本を買い求めるとき、その中の「たった一枚の絵」が気に入ったからということがある。
「浮世絵展」や「安藤広重展」を見に行ったからではなく、書店の画集コーナーで目に止まり、急に欲しくなってしまった。
値段も手頃で、後々の参考にもなると考え、100P足らずの薄い広重の画集を購入した。

今、考えれば、私の最も好きな浮世絵作家は葛飾北斎なのだが、中学や高校の頃は、歌川広重だったような記憶がある。

中でも、『東海道五十三次』シリーズの「生野」の雨脚や人物描写の巧みさに、これが木版画なのかと舌を巻いた覚えがあり、浮世絵の模造印刷を買って長らく壁に貼っていた。

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『東海道五拾三次』の「生野 白雨」

精密な木版画の浮世絵復刻版『東海道五拾三次』全作品を見たのは三十代半ば。知人が購入したものを一枚一枚じっくりと鑑賞したが、和紙に劣化もなく綺麗すぎて、復刻版と解っていたからか、あまり感動できなくて残念だった。

今なら、パソコンから文化庁が作成した文化遺産オンライン「東海道五拾三次」も簡単に調べることもできるので、便利になったものである。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/537079

上掲の引用文章は、
TASCHENベーシック・アートシリーズの「HIROSHIGE」より。
文章の内容については、ここでは触れないでおく。

最近では、「安藤広重」より、作家名の「歌川広重」が一般的になったようだ。
広重について解説した著者のアデーレ・シュロンブスは、ケルン大学とハイデルベルク大学で中国学、東アジア美術史、ヨーロッパ美術史などを学び、1984年から1987年まで京都大学に留学、1991年にはケルン東洋美術館の館長に就任したような経歴の持ち主。
翻訳者の「Hideo Togawa」の上手さもあるのだろうが、原文が優れていなければ、ここまでの訳文にならないだろう。現代の日本人以上に、江戸の庶民の日常を理解していたような随筆的解説になっているところも見受けられる。

さて、本書の中の「たった一枚の絵」と言うのは、82-83Pに見開きとなった図板、「木曽路之山川」(安政4年、1875)であった。

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歌川広重「木曾路之山川 雪月花之内 雪」

  画寸法(大判錦絵3枚続):37.1 × 76.5 cm
  用紙:越前生漉奉書
  版元:岡沢屋

解説:中国の山水画の様式を取り入れた堂々とした画面は、まるで死期の近づいたことを予感したかのような、広重の生真面目さと心の静けさを感じさせる。
木曽の峡谷を上空より眺め、雪に覆われた谷から木もまばらな山頂に視線を巡らし、そして、谷川の橋の上を行く人の姿に目を留めれば、そのあまりの小ささが、あらゆるものを飲み込んでしまう広大無辺の自然の大きさを思い起こさせる。

今ならドローンを利用して、上空からの俯瞰図も制作しやすいだろうが、江戸時代後期にこれほどの雪山と木曽川を描けた才能には驚きを隠し得ない。まだ本物は見ていないが、この雪の白さは、漉き和紙の色をそのまま残して表現したものに違いない。なお、この絵に描かれた場所が「木曽川支流である大桑村阿寺川流域の風景」との説もあるが、部分的に写実であったとしても、何処かは特定されていない。雪景色の中にたった一人、坂道を降りてくるような米粒ほどの人物が描かれているところなど、人々の有り様を描こうとした広重の特徴とも言えるだろうか。

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撮影:2025.10.28

  書  名:歌川広重 HIROSHIGE
  著  者:アデーレ・シュロンブス(Adele Schlombs)
  翻  訳:Hideo Togawa
  発  行:2009年
  発行所 :Taschen (タッシェン・ジャパン)

  書籍内画像:ウィスコンシン大学マディソン校付属チェイゼン美術館
        ”ヴァン・ヴレック浮世絵コレクション”

参考:
注1:TASCHEN(タッシェン)
ドイツの革新的なアートブック出版社。1980年にベネディクト・タッシェンが設立。 当初は、ベネディクトの漫画コレクションを出版していたが、のちにアート、デザイン、建築、写真などの幅広い分野の書籍を世界中に展開している。
https://www.taschen.com/en/books/art/49219/hiroshige/

注2:文化遺産オンライン「東海道五拾三次」
江戸と京都を結ぶ東海道の53駅に、日本橋と京都三条大橋を加えた55図揃いのシリーズ。明快な色の対比とユーモアあふれる人物描写は、浮世絵風景画としては軽快な印象に仕上がっている。
版元の名にちなんで「保永堂版東海道五拾三次」と呼ばれている。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/537079


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ヤマザキマリ『ベレン』



  

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雑誌 ku:nel 2025年 7月号表紙

少し前に気になって書き留めたヤマザキマリの言葉。
捨てられなくて、何度か書き換えて、やっぱり残しておきたい。

ヤマザキマリは、映画『テルマエ・ロマエ』の原作者。
漫画家、画家、文筆家、大学客員教授でもある。
また、最近はテレビでも見かけることが多くなった。

マガジンハウス発行の雑誌クウネルは、どこかで読んだもの。

「なぜ人間は、自分たちの価値観で捉えた死を動物にも押し付けてしまうのか。」

と、聞かれると、瞬時には答えられない。

続いて、

「衰弱は、そして死は、それほどまで回避しなければならないことなのか。」

と、問われると、人や場面によって変わるだろうし・・・一概に決められるものではないことも解っている。
しかし、ヤマザキの言いたいことにも納得できるところが多く、誰もが共感してそう思っているに違いない。

文章は続く、

「愛情のようにみせかけておきながら、実は飼い主の都合の良さを優先した、自己勝手な解釈の強制ではないのか。人と関わらず生きている野生の生き物たちはみな潔く死を迎えているのに、ペットはそれが許されない。そういえば、これと同じことを、晩年の、意識がないまま点滴だけで延命していた母にも感じたことがあった。」

「ベレン」とは、作者の年老いた飼い猫の名前である。
齢い15歳、ポルトガル生まれで、シカゴでも同居し、イタリアから東京の仕事場へと連れてきた”ツンデレのオバサン猫”でもあり、相棒でもあったそうだ。

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雑誌 ku:nel 2026/7月号 掲載『ベレン』部分

ベレンは「あなたはなぜ、あるがままに私を弱らせてくれないの」とでも訴えんばかりに私から離れていった。

まさに、禅寺で長年修行してきて、やっとたどり着けるような境地に、老年の動物たちはなっているのかも知れない。

寝たきりになった母の鼻から管を差し込み、気道の痰を採る痛みを毎日与え続けることに、私も後悔ばかりしていた。

生きることの喜びと苦しみ、悲しみと怒り。平凡でも、より良く食べ、寝て、健康であるありがたさに感謝できる光ある毎日を願わずにはいられない。

雑誌名の「ku:nel (クウネル)」にも、そんな思いが込められているのだろう。

ヤマザキマリは、最後に、

 「散々自分を責めたあとに残ったのは、悲しみや喪失感よりも、彼女と出会えたことへの静かな幸福感だった。」

と、読者を不安のどん底に置き去りにせず、誰にでもある出会いの貴さを伝え、もう少し楽に、ナニモノにも縛られず、生きていいのだと伝えてくれた。

ベレンが、いつまでも安らかな夢を見られますように。

  

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2025.9.26 AM 9:16 気温27℃

  書  名:雑誌 ku:nel (クウネル) 2025年 7月号 掲載
       『ベレン』(わたしの扉の向こう側)49
  著  者:ヤマザキマリ
  発  行:2025年5月20日(R7)
  発行所 :マガジンハウス

参考:
注1:ヤマザキマリ
ヤマザキ マリ(1967年4月20日 – )は、日本の漫画家、随筆家、画家。
東京造形大学客員教授。日本女子大学特別招聘教授。
海外暮らしが長く、現在はイタリア在住。(Wiki)


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さよならの向う側

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『プレイバックPARTⅢ』文庫版の表紙

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『プレイバックPARTⅢ』文庫版の裏表紙

昭和世代以降の人は、歌手・山口百恵の引退コンサートで歌われた『さよならの向こう側』を何度繰り返して視聴したことだろう。

少し陰のある艶っぽい声と音にのせる情感は、同世代の女性たちを遥かに超えていたと思われる。
そして、この歌の作詞家が阿木燿子であり、作曲は宇崎竜童であった。

普段からあまり歌を口ずさまない私は、この詩の最初の三行の歌詞フレーズしか記憶に残らず、あとに続く、
「Last song for you, Last song for you」の耳障りのいい音ばかり心に繰り返して聞こえていたのだった。

いつだったか、行きつけの書店でこの新潮社の文庫版を見つけて購入したのは、阿木燿子の作詞が好きだったのと、カメラマン・篠山紀信の撮った山口百恵の数カットの写真があったからに他ならない。

山口百恵は、芸能活動を引退して俳優・三浦友和と結婚することが決まっていた。

阿木は、その事実を知っていたからこそ、
「何億光年 輝く星にも、寿命があると教えてくれた」と、芸能スターとしての輝きには終わりがある。しかし、「季節ごとに咲く一輪の花に、無限の命、しらせてくれた」と、一人の人間として季節ごとの花を咲かせつつ、生命の連鎖で無限の命がこれからは続くのだと、語り聞かせている。

優れた作詞家の歌詞に作曲家の音が乗り、魂を込めて歌える歌手がいると名曲が生まれる。
山口百恵の歌では、阿木燿子・宇崎竜童夫妻による「イミテイション・ゴールド」(1977年)や「プレイバックPARTⅡ」(1978年)の音感も好きなのだが、言葉としては「さよならの向う側」に惹かれてしまう。

ちなみに、「アポカリプス・ラブ」の歌詞には、ヨハネの黙示録21章6節から、
「私は アルパ・オメガ 汲んでも尽きぬ命の泉」ほかが引用されている。

最近、「Last song for you, Last song for you」と呟いて、
何故だか越路吹雪が歌っていた「ラストダンスは私に」を思い出してしまった。

実は、鷹俳句会を主宰した藤田湘子の十八番の持ち歌だった。毎年、東京會舘で開催された鷹俳句会新年会の二次会などで、興が乗ると終盤に皆に勧められて情感たっぷりに「」を取りながら、ややスローテンポに歌ってくれた。
俳句にも、落語にも、歌謡曲にも、この「間」が大切なんだぞ・・・と諭すような、実に温かみのある艶っぽい歌い方であった。

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藤と秋空

  書  名:プレイバックPARTⅢ
  編  者:阿木燿子
  発  行:1985年12月20日(S60)
  発行所 :新潮社 (新潮文庫)
  レイアウト:浅葉克己、
  写   真:篠山紀信

参考:
注1:阿木燿子
(あき ようこ、1945年5月1日 – )は、日本の作詞家・女優・小説家・エッセイスト。本名は木村広子(旧姓は福田)。明治大学文学部卒業。夫はミュージシャン・俳優の宇崎竜童。(Wiki)

注2:アポカリプス・ラブ
ヨハネの黙示録21章6節「わたしは、アルパでありオメガである。」
(日本聖書協会 Japan Bible Society 1955)


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イエス・キリスト

  

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『されど遊星』の箱表紙

前回のタイトルを「翡翠逍遥」としたので、思い立って書棚から塚本の分厚い第十歌集『されど遊星』を紐解き、何枚も色付箋をつけて見たのだが、一番気になったのは上掲の「キリストとイエス」の一首であった。

ちなみに、私は、父が神道、母が仏教、家には神棚が祀られていたが、あまり宗教へのこだわりもなく、「八百万の神や隠れキリシタンが好ましい」とうそぶけば丁度くらいのいい加減さで、臨機応変、その場に合わせて何の神でも仏でも拝んでいる。

従って、子供の頃は、イエス・キリストとは、「イエス」が名前で、「キリスト」が名字の男性で、十字架で磔になって殺された人・・・くらいの捉え方しかしていなかった。

何しろ、『新約聖書』の初めの「マタイによる福音書」の第一章には、

1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図
  
   (中略)
  
16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。

現在の日本人であっても、前知識なく読めば、「キリストさんにイエスくんが生まれたそうよ」と、読めてしまうだろう。

塚本邦雄が、いつからこの違いを教えられ気付いたのかは分からない。しかし、「はざまは厳しいのに・・・」と、多くの人の誤解を指摘しようとしている。

この歌集出版の1年前、塚本による現代俳諧頌『百句燦々』(1974年10月11日)が講談社から発行されているが、その第一句目は、石田波郷の句であった。

そして、この句に関する解釈で、塚本は次の様に述べている。

 抱かれるのが厩の嬰兒イエスであれ十字架下ピエタのイエスであれ、抱く者はつねに聖母マリアであつた。この作品の不可解な魅力はまづ抱かれる者の位相の倒錯と抱く者の遁走消滅に由緣する。抱く「キリスト」についても疑問はある。すなはちこれを巷閒言ひ慣はされて來たやうに、ほぼイエスと同義の固有名詞として用ひてゐるのか、本義通り「油注がれたる者、王」といふ普通名詞として用ひてゐるのか、後者ならば作者は基督敎徒もしくはそれに準ずる聖典、敎義の理解者であらうし、句は、人閒イエスならぬメシアそのものに抱かれる法悅を暗示することとならう。(後略)

すなわち、「イエス」とは、「紀元前4年以前に、マリアの処女懐胎により、ユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育った者の固有名詞。後に制度化されたユダヤ教を批判。西暦30年頃エルサレムで十字架の刑に処せられ死亡。しかし、死後、復活したと伝えられたナザレのイエス」である。

そして、「キリスト」とは、名字・苗字や家族名(ファミリーネーム)などでは無く、「元来、油を塗られた者の意として、王に与えられた称号。ただし、紀元後1世紀には、この世の終末に現れる救世主(メシア)の意味になった」と理解しなければならない。

歌集『されど遊星』は、殊の外贅沢な歌集で、内容は、1973年(S48)重陽から1975年立春まで、約五百日間に発表した短歌に新作五十首を加えた三百首。これを七篇に再構成して、見開き二首、1ページにはたった一首だけを二行書きの大ポイントで凸版印刷したもので、文字が匂い顕つ花のように並べられている。
左右の短歌を関連付けて読めば、また違った味わいも湧き上がり、何度読み返しても飽きることがない物語が潜んでいる。

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『されど遊星』の見開きページ

さて、黄昏に咲くのは夕顔であるが、昼に咲いた「ひるがほ」が夕方まで咲いていたのを見つけたと短歌ではさらりと言っているが、「あやまちて」が、人にも花にも掛かっているところが塚本風といえよう。また、昼顔は、朝顔ほど大きくも鮮やかでも無く、朝から昼にかけて咲き夕方には萎むところが哀れでもある。

加えて、この歌を作ったころの「ひるがほ」には、カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画『昼顔』(1967年)の官能的イメージもあったはずである。

なお、アサガオならば自家受粉でも種子を作るが、ヒルガオは他の株の花粉がなければ種を得られないそうだ。

そして、生物学的には、
  アサガオ(朝顔)は、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ
  ヒルガオ(昼顔)は、ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ
  ユウガオ(夕顔)は、ウリ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ

似ているようでも、夕顔とはかなり別物である。はざまは厳しいと言うべきだろうか。

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『されど遊星』の表紙

『されど遊星』の装幀も、いつものように政田岑生であったが、この表紙挿絵がどこから引用されたのか気になって調べて見た。

イタリアのアレッツォにある「サン・フランチェスコ教会」のバッチ家礼拝堂、ピエロ・デッラ・フランチェスカによるフレスコ画『聖十字架伝説』(1452〜1466年)の右上、天井近くの預言者(エレミア or イザヤ)のイラストらしい。

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預言者「エゼキエル」(左)と 預言者「エレミア」(右)

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サン・フランチェスコ教会の『聖十字架伝説』など

サン・フランチェスコ教会のバッチ家礼拝堂

ただし、右上の預言者が「イザヤ(Isaiah)」か「エレミア(Jeremiah)」かは、美術史家の間でもまだ議論が続いており、画像だけでは特定が難しいとのこと。今はエレミア説が主流らしい。ピエロの時代のイタリア美術では、エレミアが預言者として頻繁に登場し、視覚的伝統が強いとのことだった。
なお、左上は、預言者「エゼキエル」。

私は、313年に、ミラノ勅令で、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世だと思っていたので、ちょっと残念であった。

  書  名:されど遊星
  編  者:塚本邦雄
  発  行:1975年6月20日(S50)
  発行所 :人文書院
  装  幀:政田岑生(まさだ きしお)

参考:
注1:油を注がれる
祝福として、王や祭司、預言者などの重要な人物を任命する際に、油を塗る儀式が行われていた。

注2:アレッツォのサン・フランチェスコ教会
サンフランチェスコ大聖堂は、イタリアのトスカーナ州アレッツォにある中世後期の教会で、アッシジの聖フランチェスコに捧げられている。
ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)によるフレスコ画『聖十字架の伝説』(Leggenda della Santa Croce)が描かれていることで特に有名。(Wiki)


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翡翠逍遥

  

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『翡翠逍遥』の表紙

米国の起業家、イーロン・マスク(Elon Musk、1971年生)は、宇宙輸送用ロケットを開発製造するスペースXを立ち上げ、火星に人類を移住させるプロジェクトを計画、推進している。

しかも、毎日のように打ち上げられる実験ロケットや実用衛星やStarshipについて、SNSの「x.com」に投稿される映像を見たり、人工知能「Grok」等の加速度的な発達を感じさせられると、火星への初飛行も間近に迫っているようにさえ思えて来る。

Elon Muskさんがリポスト
Dima Zeniuk @DimaZeniuk · 7月21日
“Every 2 years, we’ll try to get thousands of ships to Mars.”
— Elon Musk

Elon Muskさんがリポスト
SpaceX @SpaceX · 7月19日
Falcon 9 launches 24 @Starlink   satellites from California

Elon Muskさんがリポスト
Dima Zeniuk @DimaZeniuk · 7月18日
The long-term goal is to eventually terraform Mars
 ※ 注:terraform(〈惑星〉を人が住めるようにする, 地球化する)

湯川書房から1997年に発刊された塚本邦雄の『翡翠逍遥』は、彼の超有能な秘書的存在でもあった政田岑生(まさだ きしお)によって、1958年〜1976年頃に執筆された各種新聞、雑誌、機関誌への寄稿や句集、歌集への献呈文、果ては未発表文までもが網羅された貴重な書籍である。

例えば、その中の「卯月遠近法」は、朝日新聞の1976年4月に4回連載され、その3回目に上掲の短歌と文章が掲載されていた。

後年、塚本の第11歌集『閑雅空間』が発表されたときには、「からすむぎ」には漢字があてられ、

燕麥からすむぎ一ヘクタール 火星にもひとりのわれの坐する土あれ

と、訂正されている。朝日新聞の振仮名表記の制限で〈〉付きになるのを嫌い、わざとひらがな表記で発表したのであろう。

しかし、何より驚いたのは、1976年当時、国内旅行でさえ嫌っていた塚本が「火星移住」の夢など持っていたと書かれていた内容である。ほとほと地球の住み難さ、戦争や災害・飢饉・高湿度に愛想が尽きていたに違いない。

日本脱出したし・・・どころか、地球脱出したし・・・の思い幾許か?

ちなみに、1975年6月、人文書院から発行された第10歌集名は、『されど遊星』であった。

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『翡翠逍遥』の揮毫
(ほととぎすのみかわせみのこゑ蒼し)

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『翡翠逍遥』の帯、裏と表

  書  名:翡翠逍遥
  編  者:塚本邦雄
  発  行:1977年1月25日
  発行所 :湯川書房
  装釘者 :政田岑生(まさだ きしお)

参考:

注1:イーロン・マスク〔ウィキペディア〕
  南アフリカ共和国出身のアメリカ合衆国の起業家。(1971年6月28日 – )

注2:レイ・ブラッドベリ〔ウィキペディア〕
  アメリカ合衆国の小説家、詩人。(1920年8月22日 – 2012年6月5日) 


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