ウカウカできない終齢幼虫の羽化

green2014a

公園近くを帰りながら、ふと朝の風景と違うことに気付いた。

今朝はあれほど伸びていた雑草や下草、小枝などが、公園管理業者によってすっかり刈り取られ、実にさっぱりしているのだ。それはそれで、散髪されたようで気持ちのいいものだが、朝鳴いていたクマゼミ達のことを思うと、少し可哀想な気がしてきた。

梅雨明け宣言はまだ出ていないが、今朝の蝉たちの鳴き声を聞けば、すでに梅雨明けしたのは歴然。明朝、何年もの土中生活を終え、いざ地上へと準備していたクマゼミの終齢幼虫は、穴を抜け出し近くの樹木に辿り着くまで、かなりの距離を歩行しなければいならない。

脱皮して羽化するためには、それなりの高さの縋り付くべき灌木や小枝が必要になる。うまく脱皮できなければ羽を伸ばして乾かすことができず、不自由なまま固まってしまう恐れさえある。

時々、同じ枝先に何匹もの蝉殻(空蝉)がぶら下がっているのは、争いながら脱皮して、朝日を浴びて飛翔していったからに他ならない。

どんな世界にも弱肉強食の掟はあるが、公園の地下でこれまで何年もノンビリして来た幼虫に、はたして明日は来るのだろうか。

道にあやなく惑ひぬるかな

utsusemi2014a

台風8号が過ぎると一斉に蝉が鳴き出した。

よく見ると、草葉の影や小枝の途中に空蝉がいくつも縋り付いていた。気の早いオスゼミの中には、2週間も前から鳴き出したのもいたが、あまり早く出てきても連合いになるべきメスゼミがまだいないだろうし、どうしたものかと心配になっていた。しかし、やっと梅雨明け、団体行動を共にすることにしたのだろう。

「空蝉」と云えば、源氏物語の空蝉も思い出される。さほど面白い話でもないが、物語の初めのほうに登場すると、それだけで名前が気になってしまうものだ。

たった一度だけの契りであっても、若ければその思いは後々まで残るもの。まして次に忍んだ夜に、上掛けの薄衣だけウツセミのように残して遣り過ごされては、その口惜しさはいかばかりであったことか。

「道にあやなく惑ひぬるかな」と詠う遂げられぬ思いは、源氏物語全体をおおう人間存在の愚かしさや儚さを象徴しているのかもしれない。

「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」光君

「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木」空蝉

http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text02.html