更に上る一層楼

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欲窮千里目更上一層楼

(千里の目を窮めんと欲して、更に上る一層楼)

 

2014年8月9日、台風11号の速度が遅く、中心はまだ鹿児島沖だというのに、太平洋の湿った空気が沿岸に吹き込んできている。

午後3時ころから3時間くらい、三重県松坂市あたりが集中豪雨に襲われていたようだ。

 

唐の詩人・王之渙が遠くを見るためには、鸛雀楼に登るしか方法が無かった。しかし、今では何日も前から気象衛星から送られて来る画像を解析して、様々な分析が可能になっている。

しかし、私たちは、本当に一層高い地点に立って、地上を見ることができているのだろうか?

「千里眼」とも言われるほど、先々を見通す知恵がもっとあれば、災害は減って当然なのだが、未だにたった一つの台風で右往左往させられている。式典、地方祭、花火大会、帰省日程、それらの開催・中止決断さえ、寸前まで決まらず、巻き込まれた人々は、早く決めてくれとやきもきしている。

雨の降り方も変わった。これまでに例の無いような集中豪雨が襲い、山間部から土砂が流れ出し、幾筋もの川から集まった水が、一気に河の堤防を越え田畑や道路、人家へと溢れ出している。

何時になったら人間は遠くが見えるようになるのだろう。

否、それは距離だけの遠さではない。100年とは言わないが、せめて30年先を予想して、善かれと思う方法を試みることが何故できないのかと不思議でならない。インターネットの同時中継で、世界の裏の出来事さえ、ほぼリアルタイムで、映画のように見ているのだから。

2、3年先を見て汲汲とするより、本心、人を大切にする道があるはずだし、その道を選ぶことができる力があると信じたい。更に上る一層楼と。

 


参考:ひとりよがりの漢詩紀行

http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Kanshipage/KanshiNo4/kanshi52.html

王之渙

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%B9%8B%E6%B8%99

 

俺の名前はベルトラン

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挿画:ギュスターヴ・ドレ

原作:ダンテ

翻訳:谷口江里也

「見るがいいこの俺を! 俺が手に持つ提灯が、俺の行く手を照らし出す。俺の姿を映し出す。元は一つのこの体、離れて見ればよく見える。俺の首には足が無い、俺の肩には首が無い。元は一つのこの体、俺の名前はベルトラン。」

『地獄の第八圏の第八の邪悪の壕(マルボルジュ)』、そこは、陰謀企りごとめぐらせ、戦争さえゲームのように操った連中が焼かれ、戦をけしかけた者はその舌を、人の心を惑わした者はその胸を、余計な考えを吹き込んだ者はその頭を、鬼の剣が叩き切る。

ダンテ・アリギエリ(1265-1321)の『神曲』に、19世紀のギュスターヴ・ドレの挿絵がほどこされ、聖書でさえ描いていない地獄・煉獄・天国のイメージが、我々の間にも浸透してきた。

インド・中国生まれの地獄・極楽とはまた異なった無限の闇と光の世界。永遠に続く宿業を断ち切ることもできず、邪悪の壕(マルボルジュ)を走り続けなければならないと教えられても、戦が止むことは無い。

剣や刀は、それでもまだ潔い。人を殺めれば、その感覚は手に残る。脂まみれの肉や骨を断ち切るのは、まこと至難の業。髪を掴んで血のしたたる生首持ち上げるなら、その重さに驚くだろう。

しかし、ロケット弾や空からばらまく焼夷弾には、その痛みすら残らない。誰かが指図して、その部下が、そのまた部下の、そのまた部下に命令し、言われたままに実行するのが軍人だからと、国を守る為だと、母や子や妻を守る為だと信じてボタンを押す。

マスメディアは自主規制の名の下に、悲惨な事実は映さない。血も、焼けはだれた

皮膚も写さず、あったことさえ報道しない。それを大衆は望んでいないから・・・と、国内の同じ事件ばかりを繰り返し時間を稼ぐ。

一人を殺せば犯罪だが、100万人を殺せば英雄になる。俺の名前はベルトラン。


 参考:元の挿画-dore88b.jpg