FABER CASTELL のシャープペンシル

FABER-CASTELL

 

ファーバー・カステルの色鉛筆を愛用していたので、

いつからか俳句用にも、軸太のシャープペンシルを使っている。

普段は天然素材にこだわったりしないのだが、手に持った感覚で、

黒く染めた梨の木と梨地クロームメッキの物を選んだ。

 

一番の決めては、芯の太さだった。

1.4mmB芯である。残念ながら、2Bは無かった。

本当は鉛筆を使いたいところだが、何本も持つのは荷物になる。

仕事用のシャープペンシルの芯は、0.3から0.5mmを使っている。

 

しかし、俳句は、いつのまにか太芯で書くようになった。

袋回やホッチキス句会の短冊に即興で作句するとき、字が太いと、

誰にも読み易く、清記の間違いを無くせるとも考えた。

もちろん、俳句では、縦書の文字数が少ないことも要因ではある。

 

万年筆はインクの乾きが遅く、ボールペンは時々書けなくなったりする。

何より消しゴムが使えるのが、シャープペンシルの最大の利点である。

かつて俳句初学の頃、師匠からパイロットの万年筆をもらった。

何人かの弟子がたまたま同席する編集室で、

 師匠:「誰か、俺の太字の万年筆はいらないか?」

 弟子A「太字は、好きではありません」

 弟子B「大学の先生に、太字は文字が潰れて読みにくいと怒られました」

 弟子C「太字の万年筆は、持っています」

 師匠:「それなら、・・・にやろう」

そんな訳で、俳句雑誌への投句の時だけは、いつも万年筆の太字にしていた。

 

短歌も作っていたが、それには、ペリカンの細字の万年筆を反対に向けて、もっと細字になるようにして書いていた。しかし、原稿用紙に合わせてPCからプリンタ出力できるようになり、今は万年筆は、ほとんど使わなくなってしまった。

「見る」と「視る」とは、違うと気付いたその後が大切

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瀧の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半

        句集『翠黛』三省堂

 

共同通信(2014.08.11)によれば、「東京大と慶応大の共同研究チームが、1兆分の1秒よりも短い時間ごとの連写撮影ができる世界最高速のカメラを開発した」とのこと。

つまり、1兆分の1秒(1ピコ秒)の世界を画像にして、物質の生成や変化を確かめることができるようになったとも解釈できる。

宇宙の彼方の物質は、分光学や電磁波を利用して「観る」すなわち観測できるようになった。そして、分子レベルから原子レベルへと、視野は広がり、深まりつつある。

これまでも高速度カメラを用いれば、水の流れを止めたり、その瞬間、瞬間を描画できたのだが、水の分子より挙動の不安定な水素分子まで観測することができるに違いない。

さて、高浜虚子編の『季寄せ』や稲畑汀子編の『ホトトギス新歳時記』から「滝」の例句を繙けば、まず出て来るのが後藤夜半の「瀧の上に」である。

虚子や山本健吉の批評によって、すっかり名句と知れ渡り、現代俳句に詳しい俳人なら、「瀧の上に」の俳句を知らないはずはなかろう。

人間の目で滝を見て、その後、もっと「観る」、あるいは「視る」ことに心を砕けば、確かにそこに、これまでとは一味も二味も違った世界が顕現してくることに気付くはずである。

たとえば、テレビ番組などで、超能力者による「透視」事例を紹介するものがあるが、あれほどの能力は無くとも、一般人でも、誰でも、何かを見た時に、もう少し、そのもの事態を観察する気持ちで見ることに心を砕けば、今までとは違った何かが視えてくるのではなかろうか。

「よくみる」こと。そして、何かを心に停めること。

これができそうで、中々できない。たった一つのことなら、覚えてもおけるのだが、自分の毎日の生活の中で、あらゆる場面に応用しようとすると、至難の業になる。

そこで、一日に一つから二つ、二つから三つと、増やしていくのが最前の方法とも考えた。

目の前を通り過ぎる物体を、「あ、トンボ」から、「あ、オニヤンマ」、「あ、胴体に、忘れな草の花のような色のあるオニヤンマ」、「あ、胴体の一部に鮮やかな勿忘草色、眼は半透明の緑青色のクロスジギンヤンマ(黒条銀蜻蛉)」と。

実は、そこから、もう一歩踏み出して、視ることができれば申し分ない。

虚子の「客観写生」のその向こうには、何が視えたのだろう。

蜻蛉のさらさら流れ止まらず      高濱虚子

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな   中村汀女

芭蕉は、「物の見えたるひかり、いまだ消えざる中に云ひ止むべし(三冊子)」と言っている。

トンボは物である。太陽の光を受け、昆虫の外骨格や羽が可視光線を反射して、人間の網膜にトンボの動くカタチとして映し出される。網膜や脳細胞のシナプスからその映像が消える前に、私たちは感じた何かを言葉に変え、記憶していく。映像だけより、言葉に変えて同時に蓄積しておくほうが、記憶力は何倍も増すだろう。

俳人は、「蜻蛉(とんぼ)」と聞いただけで、季語の蜻蛉を思い、蜻蛉のいくつかの例句とその情景、自分の過去の蓄積映像や画像を頭の中で反芻している。

作句歴が長ければ、自分の作った蜻蛉の句も思い出し、より鮮明に作句時の映像が浮かんできているかもしれない。

それだからこそ、物のその向こうに光るナニモノかを捉え、自分に納得できるモノや感覚として一度は掴んでおきたいと思う。

毎日見過ごしそうな物達を、一瞬でも力を入れて視る、あるいは「捨て眼」として、その時は必要とせずとも、後から記憶の糸をたどって思い出せる映像として、心ふるわせ、どこかに仕舞っておきたいと思う。


参考:

後藤夜半(Wikipedia)「滝の上に水現れて落ちにけり」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A

『日本新名勝俳句 : 懸賞募集』大阪毎日新聞社[ほか]

セミと生きとし生けるものたちへの讃歌

クマゼミの交尾
クマゼミの交尾

 

假の世のひとまどろみや蟬涼し   高濱虚子

 

八朔(はっさく)。本来は、陰暦の八月朔日(ついたち)のこと。

辞書によれば、

江戸時代には,徳川家康の江戸入府の日にあたることから,諸大名旗本は白帷子(しろかたびら)を着て登城し,祝詞を述べた。また,江戸吉原では,紋日(もんび)とされ,遊女は白小袖を着た。」との説明がある。

歳時記によれば、

「この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。」と、こちらが本意に近かろう。

近所で鳴く蝉をじっくり見ようと出かけた。街路樹の小灌木を見上げれば、何匹もの蝉がしきりに鳴いている。モチロン、鳴くのは雄ゼミ。腹にある共鳴板、腹弁を振るわせ、騒がしく鳴き立て、雌ゼミに自分の存在を誇示している。

鳴いている蝉の尻先は、あまり尖らず、やや潰れたようにも見える。腹弁を振るわせた時は、尻先もかなりの勢いで振動している。

そうして、鳴き声に聞き惚れうっとりしたのか、あまり動かなくなった雌ゼミの後方から忍び寄り、横斜めから、やや強引に片羽を持ち上げつつ、手足を絡ませながら雌ゼミの尻先に自分の尻先を押し付けていく。

クマゼミの交尾が始まった、黒い尻先から、やや黄色味のある接合部が覗いて見える。どちらの蟬も交尾に夢中で、鳴くこともないが、周りの蟬たちは相変わらず騒がしく鳴き立てている。

交尾部を時折激しく振動させることもあったが、5分ほどの交わりであった。共鳴板から察すると、画像では下位置にいるのが雄ゼミである。

ことを終えると、雄ゼミは何処かへ飛んで行ってしまったが、雌ゼミは飛ぶ体力もない様子で、ただ必死に樹木にかき付いているだけだった。

このあと、雌ゼミには産卵という大仕事が待っているのだから、それも仕方あるまい。

命は受け継がれるもの。何度繰り返されたか分からないが、人類より大昔から蟬や昆虫も居たに違いない。その一生は短くとも、産まれ、鳴き、交尾し、産卵し、死んで行く。この夏の大合唱を、しばし聞きながら、戦場の爆撃の音ほどのことはないと思えば、暑さも、ウルサさも少しは許せるだろう。

 

男も汚れてはならず

 

 

 

桔梗や男に下野の処世あり  大石悦子

「きちかうや」の上五だけで、織田信長を滅ぼした本能寺の変の「桔梗紋(明智光秀)」が思い出される。

潔い男なら「下野」もするが、今時はそんな美学さえ通じない。勝てば官軍、正しくても負ければ歴史の泡と消えるばかり・・・いや、正しいという判断など誰にできよう。あるのはただただ自分の良心に従うのみ。

大石悦子の師事した石田波郷には「桔梗や男も汚れてはならず」の名句がある。

作者も常々、桔梗の句を作りたいと考えていたに違いない。俳句の子弟相聞とは、このように受け継がれていくのかと、実に羨ましい限りである。

句集「百花」より

チャンスの神様

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後にも髪脱け落つる山河かな  永田耕衣

 

俳句は頭で考えるものではない。ただ感じればいい。

俳句のリズムにのって、一瞬頭の中にイメージされるもの。

それが、好ましいかどうか・・・それだけである。

俳句は、詩(ポエム)なのだ。

難解な評論のように、あれこれ筋道をたどって解ろうとする必要はない。

現実世界をピョンと飛び越えてしまう踏切の良さを味わう。

名句ほど、きっとその飛躍の大きさが楽しめるだろう。

歳をとれば、誰だって髪は抜け落ちるもの。冬めくころにはいっそう抜けるものだが、人生を振り返るにはまだまだ早い。愛する山河があるのだから。

今ここで、チャンスの神様の前髪をスパッと掴んでみよう。

彼には、後ろ髪がないのだから。

句集「吹毛集」より。

孔雀群青

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孔雀群青転生の日の花ふぶき  邦雄

 

孔雀は色彩豊かな尾羽をもつ大型の鳥である。

人間界はいざ知らず、一般に動物界ではメスよりオスのほうが色鮮やかな意匠が多く、美しい羽も雌鳥を惹きつけ、子孫繁栄に不可欠な旗印でもあった。

英語では、雄鳥はピーコック(peacock)、雌鳥はピーヘン(peahen)とはっきり区別された呼び名もあるが、それは姿形や色の違いがあまりにも大きかったからかもしれない。

鋭い爪や嘴で毒蛇さえも殺してしまうところから、仏教では災厄をはらい安楽をもたらす孔雀明王へと形を変え、「仏母大孔雀明王経」なるものまで伝わっている。

また、現存最古の五十音図は、醍醐寺蔵本、平安中期の書写「孔雀経音義」の巻末に記されているという。